織田信長を裏切った武将としては、まず明智光秀の名前が挙がるだろう。しかし、信長を裏切ったのは光秀だけではない。 天下統一への道のりで、多くの者に裏切られているのだ。その中から、代表的な6人を紹介しよう。
和田裕弘(戦国史研究家)PROFILE 昭和37年(1962)、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団─派閥と人間関係』『信長公記─戦国覇者の一級史料』『織田信忠─天下人の嫡男』などがある。
―織田信長は、「天下統一」の過程において、じつに多くの家臣に裏切られた。尾張時代には兄弟や重臣に謀叛を起こされ、上洛以降も、いったん織田方に付いた戦国大小名に相次いで離反され、新参者として重用した有力家臣にも謀叛された。
相次ぐ謀叛は、信長の性格や家臣に対する起用法に起因するという見方もある。しかし、戦国時代、家臣に裏切られたのは何も信長に限ったことではない。版図の拡大に伴って外様衆が増え、その分、謀叛のリスクが高まったのは当然だろう。
のちの羽柴(豊臣)秀吉の時代には、秀吉に対抗できる戦国大名がごく限られ、もはや謀叛する「余地」はなくなった。信長の最晩年も同様だが、それ以前に大がかりな謀叛を決行した、松永久秀や荒木村重の時には、反信長陣営と結べば、将来の展望が拓ける可能性がまだ残されていた。
これが謀叛を起こした主要因だろう。なお、明智光秀の謀叛は、信長を討つのが目的であり、例外に属する。信長に叛旗を翻した武将は数多いが、主な6人を取り上げて見ていこう。
信長の同母弟。信行と記されることもあるが、良質な史料では確認できない。通称は勘十郎、武蔵守を名乗る。諱は信勝、達成、信成(以下、信成で記す)と変えている。
父信秀は天文21年(1552)に病死し、19歳の信長が家督を相続。信秀の最終的な居城だった末盛城は信成が相続した。
信長には4人の家老が付けられたが、信成にもそれに匹敵する家老衆が付けられた。このあたりを見ると、分割相続だったと思われる。それ故に、信成は対抗心を持ったのだろう。
弘治2年(1556)8月、信成が信長の直轄地を横領するという敵対行動に出た。信長の筆頭家老である林秀貞と、信成家老の柴田勝家とが密謀し、信長に謀叛したのである。
両軍は稲生原で激突する。信長は手勢700人を率いて出陣。信成方は、柴田勝家が1000人、林秀貞の弟美作守が700人を率い、信長に倍する軍勢を動員した。合戦そのものは信長の怒声の前に信成方が怯み、信長軍の大勝となった。
母報春院の執り成しもあり、信成主従の罪は不問に付された。しかし、信成は再度謀叛を計画する。
信成から疎んじられつつあった勝家は、信長に謀叛を密告。信長は、病と称して信成を清洲城に招いて謀殺した。隣国美濃の斎藤(一色)義龍が弟2人を誘殺したのと酷似している。
信成も警戒したと思われるが、見舞いを勧めたのは、ほかならぬ実母と家老の勝家だった。推測を逞しくすれば、2人とも誘殺を黙認した可能性もある。
後年、信成の長男信重(信澄)は信長に優遇され、各種奉行などを務めた。ただ、明智光秀の女婿だったため、本能寺の変後、関与を疑われ、信長の三男信孝らに攻め殺されている。
林通勝と記されることもあるが、諱は秀貞。信長の家臣には違いないが、分限はかなり大きい。与力も多く、信長に匹敵するほどの勢力があった。
前述のように秀貞は、弟の美作守とともに信成側に寝返った。稲生原では、弟の美作守が戦場に立ったが、秀貞は参陣していない。戦場で信長と見えたくなかったのだろう。
信長の一代記『信長(公)記』に登場する美作守は、完全に悪役である。異本の1つには、首実検の際、信長は自らが討ち取った美作守の首を足蹴にしたと記されている。
じつは稲生原の戦いの直前、信長は林兄弟の謀叛の噂を聞いて、秀貞の居城となっていた那古野城へ不意に訪問したことがあった。
この時、強硬派の美作守は信長を討ち取ろうとしたが、さすがに兄の秀貞は「三代相恩の主を討つに忍びない」として、信長を見逃した。信長は美作守に対し、この時の遺恨があったのだろう。
秀貞は罪を許され、その後も筆頭家老の地位を保ち、信長から特別の待遇を受けていた。しかし、天正8年(1580)8月、重臣の佐久間信盛が大坂本願寺攻めの怠慢などを糾弾されて追放処分になった時、秀貞も追放された。
理由は信成の時の謀叛ということだが、それは四半世紀も前のことになる。秀貞は追放後、京都に逼塞したようだが、わずか2か月後、68歳で死去した。
更新:12月12日 00:05