2014年05月30日 公開
2022年12月08日 更新
『歴史街道』2014年6月号より一部を抜粋
月が師走に変わった天正6年(1578)12月8日、信長は有岡城総攻撃を命じた。3万の大軍勢による力攻めだ。だが、攻略はならなかったばかりか、万見重元や水野忠分らが討死したので、信長は無理な力攻めは避け、10数城の付城を築いての兵糧攻めに方針を転換する。
一方、村重は毛利勢の支援に望みをかけて籠城をつづけた。翌天正7年(1579)2月には、輝元家臣の桂元将が援将として尼崎城に入った。だが、従えているのはわずかな供廻りだけであり、後詰行動は起こせない。
次第に窮地に追い込まれていく村重は、5月27日と6月4日、元将に書状を送って輝元や小早川隆景の出陣を催促した。
しかし毛利軍は動かなかった。というより、動けなかった。信長は豊後の大友宗麟と款を通じ、背後から毛利氏を牽制させていたのである。
籠城すること、およそ10か月。焦慮する村重は苦悩の色を隠そうともせず沈思する。
(このままでは埒が明かぬ。桂殿と直談判すれば、右馬頭(輝元)殿も腰を上げてくれるやもしれぬ。場合によっては芸州まで足を運んで右馬頭殿と直接交渉してもいい。そのためには尼崎城へ……)
尼崎城は有岡城の南方、西国への海路の便がよい沿岸部に築かれている。
(しかし、厳重な包囲下にある有岡城から密かに脱出するには少人数でなければならぬ。一族郎党を残していかざるをえぬが、有岡城は金城湯池だ。わしがいなくても、弟の村氏や重臣らが支えてくれるに違いない)
煩悶の末に断を下した村重は、9月2日、夜陰に紛れてわずか5、6名の従者とともに有岡城を脱出して尼崎城へ移った。
村重の望みはしかし、無残に打ち砕かれた。10月15日、寄せ手の内応工作によって有岡城内の足軽大将たちが謀叛を起こし、11月19日に開城する。一族の荒木久左衛門は、村重の降伏と尼崎・花隈両城の開城を条件に有岡籠城者を助命する、という約束を信長と交わすや、妻子を残して尼崎城へ急行した。
だが、村重は承引せず、窮した久左衛門は妻子を見捨てて出奔。信長は村重や久左衛門らへの見せしめのため、残虐きわまりない仕置きを命じた。
12月13日から16日にかけて、有岡城の女房衆122人を尼崎城近くの七松で礫に架けて殺害し、下級武士やその家族512人を4軒の家に閉じ込めて焼殺させ、村重の室をはじめとする荒木一族と重臣の家族36人を京都へ護送して市中引き回しの末に六条河原で斬首させたのである。
それでも、気骨稜々の村重は屈しない。尼崎城から花隈城へ移って抗戦しつづけた。だが、信長の将・池田恒輿に攻囲されて天正8年(1580)7月2日に城は落ちる。その直前に村重は城外へ脱出し、毛利氏を頼って安芸へ逃れた。
しかし、毛利家中では武将として高くは評価されなかったのか、出家の道を選び、忘恩の裏切り者、一族郎党を見殺しにした卑怯者という誹謗に対して「道糞」という激烈な号で応じ、尾道で隠遁生活を送った。自裁しなかったのは、一族の菩提を弔うとともに、憎き信長より長く生き永らえてやろうという意地だったのであろうか。
村垂は茶の湯の道にも通じ、「利休十哲」に名を連ねた数寄者でもあり、信長の死後、秀吉に召し出された。そして秀吉の命により「道薫」と号を改め、茶道一筋の余生を送った。
更新:12月10日 00:05