天下統一へと邁進した織田信長だが、その道のりは平坦なものではなく幾つもの敗北や裏切りに遭ってきたという。
信長の敗戦は大きく3つのパターンに分けられると語る直木賞作家・安部龍太郎氏が、敗れた戦いの性質と要因について解説する。
※本稿は、『歴史街道』2020年10月号の特集「織田信長の合戦・失敗の本質」から一部抜粋・編集したものです。
織田信長といえば、「革命児」として捉えられることが多く、戦国時代のみならず日本史上でも、絶大な人気を誇る人物である。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったのをはじめとして、尾張から美濃、そして畿内へと領土を広げていき、あと一歩で天下統一というところまでたどり着いたのは周知のことだ。
しかし、その道のりは決して順風満帆なものではなく、手痛い敗北や裏切りにあってきたことも確かである。
信長が敗れた戦いを挙げよう。
① 斎藤家との戦い
② 浅井・朝倉との戦い
③ 石山本願寺との戦い
④ 長島一向一揆との戦い
⑤ 毛利家との戦い
⑥ 武田家との戦い
⑦ 上杉家との戦い
⑧ 伊賀地方の戦い
それぞれ、最終的にはほとんど勝利を収めた相手ではあるが、勝ってばかりではなく、1度は敗れているのである。
これらの負け戦は、後に信長の人格だけでなく戦略にも影響を及ぼしていくが、まずはその戦いの性質と敗因について、ひも解いていきたい。
信長の敗戦は、大きく3つにわけることができる。
1つ目は、「発展途上ゆえの敗北」だ。それが①の斎藤家との戦いで、稲葉山城攻め、河野島の戦いといった敗北を味わっている。
中でも、永禄九年(1566)の河野島の戦いでは、信長のほうから美濃・尾張への国境へ兵を進めたのだが、斎藤龍興軍に迎撃され、敗走している。その際、織田軍は多数の兵が川で溺れただけでなく、兵具などを捨てて逃げるほどの体たらくだったという。
この頃は信長自身も若かったが、何より、後年のような強固な家臣団も形成されておらず、鉄炮を駆使した戦術も定まっていなかった。この時の信長はまだ試行錯誤をしており、それゆえに敗れたのである。
2つ目は「政治的な敗北」で、②の浅井・朝倉との戦い、そして③の石山本願寺との戦い、④の長島一向一揆の戦いが当てはまる。
またこれらの戦いの性質は、味方もしくは中立だった勢力を敵に回したものと言える。
特に浅井長政の裏切りは、信長にとっては信じがたいほどの出来事であった。
元亀元年(1570)、朝倉義景討伐のために越前に攻め入ろうとした信長を、同盟を結んでいた長政が背後から襲おうとしたのである。
『信長公記』には、「浅井は歴然御縁者たるの上、剰え、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべき」とある。
長政は信長の妹・お市が嫁いでいる「御縁者」であるし、近江の北を与えているのだから、不足があるわけがない。裏切りなど噓であろうと信長は言った。
だが、次々と入る長政離反の報に、「是非に及ばざる」として、撤退を始めた。世にいう金ヶ崎の退き口である。
それから五カ月後の元亀元年9月、今度は信長に対して敵対姿勢を見せていなかった、いわば中立だった石山本願寺が、意外な行動に出る。三好三人衆を攻めていた織田軍を、突如として攻撃してきたのである。
その2カ月後には、石山本願寺に呼応した長島一向一揆が信長の弟・信興を小木江城に攻め、自害に追い込んでいる。
浅井長政の裏切りから本願寺の敵対まで、これら一連の動きは第一次信長包囲網と称される。
しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。それは、信長の朝倉攻めが、朝廷も幕府も認めていた軍事行動だったにもかかわらず、縁戚関係にあった浅井が裏切ったという事実である。
これについては諸説あるが、わたしは大物の黒幕がいたと考えている。その黒幕こそ、朝廷という旧来勢力の中で絶大な権威を持つ、関白の近衛前久である。さらに言えば、本願寺を動かしたのも、前久であろう。
それをうかがわせるものが、近衛家と関係の深い島津家の「家分け文書」に収録されている。元亀元年8月10日、前久が島津貴久に宛てた書状に次のようにあるのだ。
「しかれば江州南北、越州、四国衆ことごとく一味せしめ候て、近日拙身も出張せしめ候。すなわち本意を遂ぐべく候」
つまり、江州南北の浅井と六角、越州の朝倉、四国の三好三人衆を味方にして、近日、自分も出陣して本意を遂げるつもりである、と堂々と宣言しているのだ。
前久は13代将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆を匿い、そのため朝廷から追放されていた。この追放劇に関わった足利義昭と、義昭を擁立する信長を排除しようと、前久は政治力を駆使して、右の勢力と本願寺勢をたきつけたのだ。
信長はこの一連の苦境を何とか脱したものの、前久をはじめとする旧来勢力に、政治的に敗れたのである。
更新:11月21日 00:05