大河ドラマ「麒麟がくる」によって、足利義輝と松永久秀に対する注目が高まっている。月刊誌『歴史街道』2020年7月号でも、「足利義輝と松永久秀―『剣豪将軍』と『梟雄』の正体」と題し、最新研究を踏まえて二人の実像に迫っている。
静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、将軍家に生まれた義輝と、出生地も定かでない久秀の対極的な二人は、共通する役割を果たしていたと語る。
本稿では、同記事より「戦国の梟雄」として知られる松永久秀と織田信長の関係について言及した一節を抜粋して紹介する。
小和田哲男 静岡大学名誉教授
昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を担当。著書に『明智光秀・秀満』『戦国武将の実力─111人の通信簿』など、近著に『戦国武将の叡智─人事・教養・リーダーシップ』がある。
永禄元年3月、近江の朽木にあって京都帰還を目指す足利義輝は、再び兵を挙げる。細川晴元とともに京都に攻め込んで三好長慶と戦う。
しかし三好方を破ることができず、戦線は膠着。そして11月、近江の六角義賢の仲介により、義輝と三好長慶の間に和睦が成立する。これによって、京都に戻った義輝は、将軍としての力を発揮しようと精力的に動いていく。
そのひとつとして、大名同士の戦いの調停が挙げられる。
具体的には、永禄元年に上杉謙信と武田信玄、永禄3年には尼子義久と毛利元就、島津貴久と伊東義益、さらに永禄6年(1563)には毛利元就と大友宗麟といった具合に、調停に尽力した。
こうした行動からは、天下静謐を求め、大名同士の争いを止めることが、将軍としての役割だと、義輝が認識していた節がうかがえる。
義輝は、「将軍はいかにあるべきか」を自分なりに突き詰めて考えていたように思える。それは、高名な剣客に剣を習い、「剣豪将軍」と称されることからもうかがえよう。
単なるお飾りの将軍ではなく、武家の頂点に立つにふさわしい存在でなければならない、と考えたのではなかったか。
同時に、「衰えた室町幕府を自分の手でもう一度、元の姿に戻したい」という、若者らしい正義心のようなものがあったと思われる。
細川政元のクーデター以後、将軍の権力は衰えた。しかしながら、地方の大名の中には、まだ「将軍の権威」を敬う姿勢が残っていた。
将軍から名前の一字をもらうことをありがたがったのは、そのあらわれである。武田晴信は義晴の「晴」、上杉輝虎も、伊達政宗の父の輝宗も義輝の「輝」をもらっている。
だが時代がくだるにつれて、そうした気持も徐々に薄れていく。織田信長はその典型だが、信玄にしても、晩年は将軍に対する尊敬心を失っていた。
実力主義の時代へと移り変わる中で、時流に逆らっても、「将軍家の権威を、三代将軍・義満の頃に戻したい」「よき時代に戻したい」という願望が、義輝にあったのだろう。
仮に、応仁・文明の乱以前に義輝のような気概をもった将軍が登場していれば、また状況は変わっていたかもしれない。しかし、義輝が生きた時代には、幕府自体が大きく傾き、将軍権威を取り戻すにはあまりにも厳しい状況に置かれていた。
義輝は、「将軍は不要」とする時代の流れを、必死に押しとどめようとした人物だったと評せるのではないだろうか。
永禄7年(1564)に三好長慶が亡くなると、長慶の弟・十河一存の子で、養子に迎えられていた義継が跡を継ぐ。しかし実際には、松永久秀と重臣の三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が、三好政権を掌握した。
それは主家乗っ取りに近いのだが、久秀は当初、三好家の生き残りを図ろうとしていたと思われる。また、三好長慶の死は、長慶に頭を押さえられていた形の足利義輝が、権力を強めることにつながった。
それに焦ったのが三好三人衆で、永禄8年(1565)5月19日、将軍御所に義輝を襲撃する事件に至る(「永禄の変」)。義輝は自ら得物を取って防戦にあたったが、享年30という若さで命を落とした。
このとき、久秀の嫡男・久通が三好三人衆と一緒に襲撃に加わっていることは確かだ。だが最近の研究では、久秀自身はその場にいなかったと考えられている。
それを象徴するかのように、翌永禄9月(1566)、久秀と三好三人衆との関係が悪化する。両者は堺の近くで戦い、敗れた久秀は堺で再起を図るが、ここも三人衆に包囲され、大和の支配を失った。
しかし永禄10年(1567)、三好長慶の跡を継いだ義継が三好三人衆と対立すると、久秀は義継と連携して攻勢に出る。このとき久秀は、東大寺に陣を置いた三好三人衆と戦い、有名な東大寺大仏殿炎上が起こっている。久秀は信貴山城を奪回するなど、ある程度の勢力を回復した。
織田信長が足利義昭を擁して上洛したのは、翌年の永禄11年(1568)である。
久秀は名物茶器の九十九髪茄子を献上し、三好義継とともに信長を迎えた。信長としても、味方してきた者をわざわざ討つ必要はない。ここにおいて久秀は、信長、義昭の下につくことになった。
三好三人衆は信長によって畿内から逐われ、久秀は信長軍2万の助勢を得て、大和の再支配に乗り出す。つまり、信長のおかげで、甦ったのである。
その後、石山本願寺との戦いなどに従事し、信長のもとで働き続けた久秀は、将軍・足利義昭の要請に応じて武田信玄が西上し始めた元亀3年(1572)、三好三人衆などと組み、反旗を翻した。
しかし、天正元年(1573)に信玄が没し、義昭が追放される。太刀打ちできないと見たのか、久秀は信長に降伏して許されたが、これで終わりではない。天正5年(1577)には、再び信長に反旗を翻す。
その2年前の天正3年(1575)、信長に大和国を取り上げられ、多聞山城も手放さざるを得なくなった久秀は、上杉謙信の西上に呼応しようとして、信貴山城に籠ったのである。
これが久秀の最期になった。謙信は上洛せず、織田軍に包囲された末、自死したといわれる。
更新:12月10日 00:05