なぜ、松永久秀は織田信長に反旗を翻したのか。
信長の下についたといっても、久秀が心の底から信長を慕ったわけではない。
「強い者に従う」という考えから、信長に一時的に従ったにすぎない。そうした考えは、当時の武士には一般的なものであった。したがって、信長より強そうなものが現われれば、それに賭けようとしたのだろう。
しかしながら興味深いのは、一度敵対した者を許さない性分の信長が、久秀を一度は許したことだ。おそらく久秀の能力が並大抵のものではなく、使い道があると見て、謀反を咎めなかったのではないかと思われる。
久秀は、下剋上の典型のように語られることが少なくない。「守護大名から戦国大名になったわけではない」という点からすると、その通りである。
しかも、出自が明らかでない久秀が、一時期は三好家を支え、三好長慶の死後に実権を握れたのは、「下剋上の時代」だからこそといえる。
久秀は、「下剋上を可能とする、優れた武将」と評せるだろう。
また、三好長慶が戦略的に優れただけではなく、連歌にも秀でた文化人だったように、久秀も名物茶器をいくつも所持し、文化人としてのたしなみをもっていた。
何よりも、三好長慶と織田信長からの高い評価が、久秀が名将だったことを裏付けているのではないだろうか。
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足利義輝と松永久秀は、出自からして対照的だ。しかし、二人を通じていえることがある。それは図らずも、次の時代へとつながる役割を果たしたことだろう。
義輝は幕府の衰勢が顕著な中で、何とか将軍の権威を回復しようとした。しかし、それは叶わなかった。そしてそのことによって、かえって「将軍は不要」ということを明らかにしたともいえる。
一方、松永久秀は実力主義を体現した人物である。将軍権威を必要としない「三好長慶政権」を支えることで、将軍がいなくとも、世の中が回ることを証明してしまった。おそらく織田信長は、そうした前例を踏まえたうえで、政権を運営していったのだろう。
織田信長は、突然変異の天才と思われがちだ。しかし、そうではない。信長以前に、足利義輝や松永久秀のように、時代の流れと戦い続けた存在がいたことを見落としてはならないのである。
更新:11月23日 00:05