柴田勝家といえば、本能寺の変後、天下を狙う羽柴秀吉の引き立て役として描かれることが多い。猪突猛進型の武将という印象だが、そうしたイメージは誤りであり、多士済々の信長家臣の中でも出色の武将だった。
林秀貞は信長の家老でありながら、信長に叛旗を翻したが、勝家はもともと信長の弟付であり、信長に謀叛するという「罪悪感」は少なかっただろう。信長と信成の織田家の覇権争いに、信成の重臣として信長に敵対したに過ぎない。
稲生原の戦いで信長に敗北したように語られるが、じつは正確ではない。確かに信成方は敗退したが、勝家自身は信長軍を一度は打ち破っており、その時に負傷したため退いていた。信長は勝家不在の信成軍を破ったに過ぎない。それでも勝家は信長の実力を思い知ったに違いない。
信成の再度の謀叛の計画を、勝家は信長に告げた。信成重臣の勝家が信長方に寝返ったことで、両者の勢力バランスは大きく信長側に傾いた。
信長は戦場での犠牲を払うことなく、信成を誘殺し、信成の旧臣を吸収した。勝家の密告は大きな手柄であり、後年、越前一国を任されたのは、この時の忠節のお蔭といわれる。勝家も後ろめたかったのか、信成長男の信重を養育したという。
その後、勝家は織田軍の軍団長にまで上り詰めたが、本能寺の変後、秀吉に後れを取った。頽勢を挽回できず、賤ヶ岳の戦いで敗北。居城の北庄城まで戻り、後妻に迎えた信長の妹お市とともに、見事な最期を飾った。
江北の戦国大名で、信長の妹お市の婿となった浅井長政。永禄11年(1568)9月、信長が将軍候補の足利義昭を奉じて上洛した時、浅井軍も従軍したが、具体的な活躍は不明である。むしろ箕作城攻めの時、働きが鈍かったという、不名誉な逸話が知られている。
長政は、義昭の上洛に供奉したに過ぎず、信長の家臣ではなかった。その後の長政の行動ははっきりしないが、永禄12年(1569)8月の北畠攻めで、浅井軍の参陣が確認できる。
北畠攻めは将軍義昭の親征ではなく、信長が総大将を務め、浅井軍はその指揮下にあった。長政自身は参陣していないが、従軍していた阿閉貞征、磯野員昌らに恩賞が与えられたという徴証はない。浅井軍には不満が溜まったのかも知れない。
翌年4月、信長は越前の朝倉討伐に出陣する。敦賀の諸城を下し、まさに越前国中へ乱入しようとした矢先、長政の離反が知らされた。
信長は「長政は妹婿であり、しかも北近江を任せているのに謀叛する訳がない」と信用しなかった。信長は長政を「小身の家来」と認識していた。
長政離反の理由は諸説あるが、両者の認識にずれがあったものと思われる。長政は北近江で独立した大名に成長していたが、このままでは信長の風下に置かれるという危機感があったのだろう。
長政は、朝倉義景、大坂本願寺、延暦寺、三好三人衆、さらには武田信玄らと共同戦線を張ることで、足掛け4年にわたって信長を苦しめた。しかし、信玄の急死により、情勢は一変する。居城の小谷城を攻囲され、援軍の義景は成すすべなく撤退し、信長軍の猛追を受けて滅亡した。
返す刀で江北に戻ってきた信長軍に対し、浅井軍はすでに刀折れ矢尽きた状態であり、長政は瞬く間に自害に追い込まれた。正室のお市と三人の娘は助命されたが、実母は惨刑に処され、男子は磔に懸けられた。
更新:12月10日 00:05