昨今、三好・松永氏の研究が飛躍的に進展し、松永久秀に対する評価も変化している。最新の研究では、主君に尽くし、家族思いという見方もあるが、久秀の生涯を概観すれば、やはり従来通り梟雄と呼ぶにふさわしい。
久秀は、将軍足利義輝を弑逆したことでも知られているが、実行部隊には参加せず、居城の多聞山城にいた。ただ、実行部隊には久秀の嫡男久通が従軍しており、久秀も弑逆に加担していたと見るのが自然だろう。その後、久秀は三好三人衆と敵対し、苦戦を強いられる。
こうした矢先、信長が足利義昭を奉じて上洛する動きが活発化してくる。永禄9年(1566)の、いわゆる第一次上洛計画は幻に終わったが、同11年には上洛に成功した。
義昭にとってみれば、久秀は母と兄弟の仇だったが、永禄の変直後には久秀に助命してもらった「恩義」もあった。信長の執り成しもあって、久秀は処分されるどころか、大和切り取り次第の許可を得た。その後、畿内の情勢が不安定になるに及び、久秀は反信長の動きを見せる。
しかし元亀4年(1573)7月、信長に敵対した義昭が追放されると、多聞山城を差し出して降伏。信長は久秀の言い訳に対し「面憎き」と評しながらも赦免した。ただし、かつての威勢は全く衰える。
天正5年(1577)8月、本願寺攻囲の陣を解き、信貴山城に籠城。二度目の謀叛だった。信長は「どうした訳で謀叛するのか、希望があれば聞き届けよう」と慰留したものの、応じなかった。
謀叛の理由は不明だが、謀叛できる「余地」は十分にあった。信長を巡る四囲の状況は、決して楽観できるものではなかった。
西国の毛利氏は将軍を擁して上洛を計画し、大坂本願寺は頑強に抵抗を続け、上杉謙信が北陸を南下する動きを見せていた。情勢としてはじつにいいタイミングであった。
しかし、信貴山城は、信長の嫡男信忠が総大将となった織田軍の猛攻を受け、調略も仕掛けられ、じつにあっけなく落城した。久秀が爆死したというのは誤伝である。
荒木村重は、摂津の有力国人池田勝正の一家臣に過ぎなかったが、持ち前の実力で重臣の一人にまで成り上がり、池田氏を名乗った時期もあった。
勝正が没落した後の元亀4年、将軍足利義昭が信長に叛旗を翻した時、村重は信長に臣従した。信長は感激し、新参者ながら優遇して摂津の支配を任せた。その後は大坂本願寺攻め、播磨の別所氏の討伐など東奔西走した。
この村重が天正6年(1578)10月、突如として謀叛した。謀叛の理由は諸説あるが、やはりはっきりしない。
「村重の働きに対する信長の評価が低かった」「毛利攻めの司令官の地位を秀吉に奪われた」などと推測する説もあるが、どうであろう。やはり、久秀の謀叛と同様、反信長陣営の方が有利であり、自らの力量も活かせると判断したのではないだろうか。
謀叛の報を聞いた信長は、松永久秀の時と同様に理由が分からなかった。信長にとってみれば、低い身分から摂津一国の旗頭にまで取り立ててやったのに、「何の不足があるのだ!」という思いだった。
村重父子に対し、「謀叛の噂は言語道断で天下の面目を失ったが、早々に出頭するのを待っている」と書状を認めたが、村重を翻意させることはできなかった。
その後、重臣の中川清秀と高山右近が信長に帰参するという、村重にとっては予想外の展開となったが、1年にわたって籠城戦を続けた。逆にいえば、清秀、右近らの帰参がなければ、村重の謀叛はかなり長期に及んでいた可能性がある。
追い詰められた村重は、家臣や側室らを見捨て、籠城していた有岡城から尼崎城へ移り、さらに毛利氏を頼って落ちていった。本能寺の変後は秀吉に仕え、商人の娘を娶り、茶の湯三昧の生活を送った。しかし、やがて秀吉から疎まれ、妻と家を捨て、仏僧となって寺院に入ったという。
更新:12月10日 00:05