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戦国時代に活躍した軍師の実像とは

2013年12月30日 公開
2022年08月01日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

『歴史街道』2014年1月号より

竹中半兵衛
竹中半兵衛像

一般的なイメージの、作戦を立案する参謀型の軍師は、戦国中期に登場した新しいタイプだった。従来の軍師は、陰陽道を駆使して占術に長けた「軍配者」であるという。両者が共存する戦国時代の軍師とは、どんな存在なのか。

 

軍師とはどんな存在だった?

一般的に「軍師」といえば、武将に仕えて戦略や戦術の秘策を献言していたような存在を思い浮かべることでしょう。確かに戦国時代には参謀を担った智将たちが活躍していました。有名な人物でいえば、羽柴(豊臣)秀吉に仕え、天下統一に貢献した竹中半兵衛(重治)や黒田官兵衛(孝高)、武田信玄に仕え、第四次川中島の戦いで「啄木鳥戦法」を提案したと伝わる山本勘助などでしょう。

しかし、実は作戦の立案は軍師の役割の1つにすぎません。むしろ、作戦参謀を務めた軍師は戦国時代中頃に登場し始めた人たちで、それまでの軍師というのは、占いや祈祷といった呪術的な仕事で武将に仕える存在でした。

例えば、出陣に際して吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、何か縁起の悪いことが起これば、御祓いをしたりといった具合で、「戦術」ではなく「占術」が元々の軍師の仕事です。これを担ったのは主に陰陽道に通じた僧などで、吉凶を占う際に軍配を用いたので彼らは「軍配者」と呼ばれました。

そもそも軍師とは、江戸時代に軍記物などで描かれて生まれたもので、戦国時代には軍師という役職はありません。しかしあえてその定義をするならば、専門知識や智略をもって軍事や政略などを担い、主君に仕えたスタッフといえるでしょう。広い意味では参謀役の智将もこれに該当します。

戦国時代は軍師の性格が移り変わっていった過渡期にあたり、「軍配者」と「参謀」という新旧の軍師がともに、武将の知恵袋として活躍していた非常に面白い時代といえるでしょう。

 

戦国の軍師はその後どうなった?

戦国時代の中頃から軍配者以外に、作戦立案を担う参謀型の軍師が登場します。まだ将兵の数が数百や数千の範囲であれば軍配者のマインドコントロールが有効で、士気が戦いの勝敗を大きく左右しましたが、各地で有力な戦国大名が生まれ、大きな規模の戦いが行なわれるようになると、兵力の数とその運用がものを言うようになります。そのため、占術を行なう軍配者型の軍師よりも、陣立や戦術を練るような、一般的によく知られている参謀型の軍師が求められ、主流になっていきました。武田信玄に仕えた山本勘助あたりがその嚆矢です。勘助は築城術にも長けた軍配者でしたが、軍使を務めたりなどしており、作戦面にも関わっていたことが窺えます。

また、豊後の大友宗麟には角隈石宗という軍配者がいましたが、参謀役の軍師として立花道雪が活躍しました。道雪は人心を掌握して戦場で優れた采配ぶりを見せていますが、同時に宗麟の懶惰を諌め、内政全般にも関わりました。また、今川義元に仕えた禅僧の太原雪斎は、補佐役として幼き義元を武将に育て上げ、戦でも卓越した指揮を振るいましたが、外交面でも甲相駿三国同盟の締結に尽力しています。毛利氏に仕えた安国寺恵瓊も太原と同じく禅僧でしたが、他国へ出入りしやすいという利点を活かして外交で活躍しました。このように、軍師の活躍の場は作戦立案に留まらず、内政や外交まで幅広く広がっていきます。広い意味でいえば、補佐役も軍師として捉えることができるでしょう。

ただ、戦乱が収まるにつれ、軍配者や参謀型の軍師は姿を消し、次第に官僚型の腹心へと移って行きます。泰平の世には軍務よりも政務が中心になるので当然のことですが、戦国の軍師の活躍は、争乱の時代の所産そのものでした。

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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