2017年06月13日 公開
2019年05月29日 更新
天正7年6月13日(1579年7月6日)、竹中半兵衛重治が没しました。羽柴秀吉の参謀役として活躍したことで知られます。
天文13年(1544)、美濃斎藤氏の家臣で大御堂城主・竹中重元(重道)の子として半兵衛は誕生しました。永禄元年(1558)、父・重元は不破郡岩手城主の岩手弾正を降し、翌年、菩提山城を築いて居城にしたといわれます。永禄3年(1560)、半兵衛は17歳で家督を相続、菩提山城主となりました。その頃、半兵衛はすでに軍書兵書の類に精通しており、「『六韜』も『三略』もその内容は『孫子』や『呉氏』に含まれているゆえ、改めて読み加える必要はない」と語っていたといわれます。
痩身で「その容貌、婦人の如し」といわれた半兵衛ですが、永禄7年(1564)、驕慢の度が過ぎる主・斎藤龍興を諫めるために、僅か18人で稲葉山城を乗っ取ってみせました。それまで何度も美濃侵攻に失敗している尾張の織田信長はこれに驚愕し、「城を譲るならば美濃半国を与える」と伝えてきますが、半兵衛は当然ながらこれを蹴り、城を龍興に返還すると、さっさと菩提山城に隠棲します。時に半兵衛21歳。
3年後、信長はついに稲葉山城を落として美濃を平定しますが、半兵衛は病と称して出仕しませんでした。しかし、さらに3年後には羽柴秀吉の幕下に入ります。秀吉が「三顧の礼」をとったなどと物語では描かれますが、実際の経緯はわかりません。いずれにせよ、秀吉の与力となった半兵衛の活躍は目覚しいものでした。
元亀元年(1570)の近江姉川の合戦では、対岸から浅井勢が突進してくることを読んだ半兵衛が秀吉に陣形を変えるよう進言、秀吉が迎撃に向いた陣形に改めたおかげで、織田陣を次々に突破していた浅井軍をここで食い止めることができたのです。翌年には秀吉が守る横山城に押し寄せた浅井勢を、半兵衛の機略によって撃退。天正元年(1573)の小谷城攻めでは、お市母子の救出方法を秀吉に献策し、成功させました。天正3年(1575)の長篠の合戦では、設楽原の陣に猛攻をかける武田軍の動きを読み、他の武将が幻惑されて持ち場を離れる中で半兵衛の隊だけ動かず、結果的に半兵衛らが攻撃を防いだことで守備の崩壊を防いだのです。
そんな半兵衛がもう一人の天才的な参謀役・黒田官兵衛と親しく接するようになるのは、天正5年(1577)、秀吉の中国攻めの陣中においてでした。官兵衛の先導で秀吉軍は播磨の福原城を攻略、さらに但馬を平定し、秀吉が報告に安土に向かうと、半兵衛が留守を預かっています。しかし、この頃から半兵衛の肺病は重くなり始めていました。
翌天正6年、突如、摂津有岡城の荒木村重が織田信長に叛旗を翻し、中国戦線にも衝撃が走ります。秀吉軍が播磨三木城を囲む中、黒田官兵衛は荒木のもとに説得に赴き、そのまま囚われてしまいました。戻らない官兵衛を信長は裏切りと捉えて激怒し、官兵衛の息子・松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう秀吉に命じますが、半兵衛はそれに背き、松寿丸を密かに匿いました。官兵衛を信じたのです。結局、半兵衛の読みは正しく、約1年後に有岡城が落ちて官兵衛は救出されますが、その時、半兵衛はすでにこの世の人ではありませんでした。半兵衛が命がけで我が子の命を救ってくれたことを知った官兵衛は号泣したといわれます。
半兵衛は秀吉に対して、三木城の落城が目前である以上、敵の将兵に仁慈をもって臨むことを進言すると、平井山の陣で病没しました。享年36。天才的参謀にして稀有の清廉潔白の士の惜しまれる早世でした。
更新:11月22日 00:05