2014年01月22日 公開
2022年12月19日 更新
日本史で軍師的な人物の記録を辿ってみると、最も古いものは、『日本書紀』の天智天皇10年(671)の記事で、百済から渡来して朝廷に仕えた4人の兵法者の名が見えます。この渡来人軍師が日本の軍師のルーツだと考えられますが、具体的なことは不明です。
日本人の軍師の嚆矢は、奈良時代に遣唐使として中国の知識を日本に持ち帰った吉備真備です。真備は養老元年(717)に留学生として唐に渡り、儒学や天文学とともに兵学を学び、「諸葛亮八陣」「孫子九地の戦法」に通じていたといわれています。天平宝字8年(764)には藤原仲麻呂の叛乱に際して、賊軍の進路を断つ軍略で見事に鎮定しました。
一方で、真備は陰陽道の先駆者でもありました。陰陽道とは、万物は陰と陽の二気と木・火・土・金・水の五行からなるという考え方で、自然界の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術です。この陰陽道の考え方は、日常生活だけでなく合戦に際してもあてはまるもので、兵学は陰陽道の影響を受けて伝えられていきました。
平安時代では、大江維時とその5代後の大江匡房が軍師的な活躍をしました。維時は中国の兵法書『三略』を学び、日本最古の兵書『闘戦経』を記しています。匡房は源義家に兵法を授けており、義家が後三年の役(1083~87年)で空を飛ぶ雁の列の乱れから、敵の伏兵を看破して勝利を収めたことがよく知られています。彼らは学者として朝廷に仕えましたが、主な仕事はやはり陰陽師でした。
そして源平争乱の時代には、住吉の神官で陰陽師だった住吉小太夫昌長が源頼朝の軍師として活躍しています。頼朝は「伊豆旗揚げ」に際して、昌長に勝利祈願を執り行なわせ、挙兵の日取りを占わせています。
その後、南北朝・室町時代になっても幕府の執事(のち管領)を務めた細川頼之や明徳の乱(1391年)を起こした山名氏清が、陰陽師に出陣の日取りを占わせており、こうした慣習は戦国時代まで普通に行なわれていたことがわかります。
このように戦国時代の中頃までの軍師は、陰陽道を操る軍配者が主流でした。京都五山や鎌倉五山で学問を学んだ禅僧がその中心で、漢詩文学とともに「武経七書」(『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『六韜』『三略』『李衛公問対』)といった兵法書を学び、軍配者としての知識を身につけました。特に、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にあった禅僧の養成機関の足利学校は、数多くの軍配者を輩出しました。儒学のほか、天文学や易学、兵学などが教えられ、ここで学んだ僧は各地の戦国武将から軍配者として招聘されました。武田信玄も軍配者の採用の可否を判断する材料として足利学校を出ているかどうかを重視したようです。
更新:11月23日 00:05