2017年07月04日 公開
2022年07月25日 更新
天正18年7月5日(1590年8月4日)、北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城しました。秀吉の天下統一はこれでほぼ成ったとされます。
戦国期の小田原城は、現在の徳川時代の城跡とは様相が異なります。小田原城は室町期には大森氏の居城でした。その城郭跡は小峯山・八幡山と呼ばれる現在の小田原駅付近、及び線路の西の丘付近にあったと推定されます。
明応4年(1495)、伊勢宗瑞が大森藤頼を追って城を奪取(時期はもう少し後であるとも)、嫡男・氏綱を小田原城主としました。宗瑞は永正13年(1516)に相模を統一、ここに小田原城は相模・伊豆の戦国大名、伊勢氏(後の北条氏)の本拠となります。ちなみに北条氏を名乗るのは氏綱の時代からで、宗瑞がよく知られる「北条早雲」を名乗ったことは一度もありません。
その後、小田原城は拡張に拡張を重ね、戦国時代の日本で最大規模の大城郭となりました。当時の本丸は現在の小田原高校が建つ丘、ないしはその東の丘にあたり、「八幡山本丸」「本曲輪」などと呼ばれていたようです。
永禄4年(1561)には長尾景虎(後の上杉謙信)が、同12年(1569)には武田信玄が城を攻め、江戸時代の小田原城の二の丸にあたる辺りで戦闘となりました。当時は弁財天曲輪のある蓮池の堀が外郭であったと見られます。長尾、武田両将の攻撃に名将・北条氏康が守る小田原城はびくともせず、難攻不落の堅城ぶりを天下に示しました。
天正16年(1588)、豊臣秀吉の来襲を前に、北条氏政・氏直父子は惣構の大外郭の普請を実施します。東は山王川、南は早川、西は水の尾の谷間まで至り、城下町はおろか谷や田畑までをすっぽりと囲む巨大なもので、俗に周囲五里(約20km)などといわれました。実際の外郭は周囲9kmほどですが、堀と土塁は迎撃に備えて激しく屈曲させてあるため、塁壁距離は12kmほどあるといわれます。
天正18年(1590)3月29日、小田原攻めを開始した豊臣秀吉軍は、伊豆の山中城を僅か数時間で落とすと、4月5日には箱根の早雲寺を本陣として、小田原城を囲ませます。動員した将兵の数は海上からの兵力を含めると、実に22万。それでも小田原城の規模にさしもの秀吉も力攻めは無益と悟り、長期包囲戦に備えるために対城である石垣山城(通称一夜城)の構築を始めます。
同時に別働隊が関東各地の北条の支城を次々に陥落させ、小田原城を孤立させていきました。秀吉は諸将に余裕を見せるためか、5月29日には石垣山城の山里曲輪で津田宗及を茶頭にして茶会を催し、6月25日に天守以下の主要建築物が竣工すると、小田原側の樹林を一斉に切り払って、小田原城の将兵に一夜城の偉容を見せ付けました。さらに小田原城を囲む諸将の陣でも、それぞれ周囲に堀や土塁をめぐらせた陣城を築いており、天守まであげていました。支城を落とされ、援軍のあてもない北条氏は、戦意を喪失していきます。
このとき、北条氏への降伏勧告の使者をつとめたのは黒田官兵衛でした。これまで幾度となく敵を調略してきた官兵衛の実績が買われてのことでしょう。官兵衛の勧告に対し、北条氏政は反対の意を示しますが、息子の氏直は開城命令を受け入れ、自分の命と引き換えに、城兵の助命を嘆願しました。後に秀吉は基本的にこれを受け入れますが、氏直を助命する一方で、父親の氏政や重臣には切腹を命じています。官兵衛は、氏政・氏直父子に降伏を勧告する際、酒などを贈りました。これに対し北条氏からは返礼として、刀や『吾妻鑑』が贈られたと伝わります。
ところで、こんな話があります。この頃、秀吉側の工作によって北条氏の重臣・松田憲秀とその次男・笠原政堯の二人が内通しました。 ところが憲秀の長男・直憲は、父と弟の敵方への内通を北条氏政、氏直父子に報告したため、二人は捕えられ城内に監禁されます。 小田原城開城後、二人が解放されところで、秀吉から「松田を誅せよ」との命令が官兵衛に下りました。 この時、官兵衛は迷わず憲秀、政堯の父子二人を成敗し、秀吉に報告します。秀吉は「なぜ味方した松田父子を斬ったのだ。わしが斬れと申したのは、父子の内通を氏政めに知らせた直憲の方じゃ」と言って怒りました。すると官兵衛は驚いた顔で「なんと、直憲を誅せとのおおせでございましたか。これは誠に申し訳なきこと。されど、松田父子は譜代の臣ながら主君に背き、武士の道から外れた者どもでござる。一方の直憲は父には不孝者なれど、天晴れ忠義の臣。それがしの取り違え、あながち殿下にご損にはなるまいかと存じまする」それを聞いた秀吉はしぶしぶ頷き、官兵衛が去った後に、いまいましげに「官兵衛め、空とぼけをしおって」と罵ったとか。 やりとりの真偽のほどはわかりませんが、この頃の秀吉と官兵衛の関係を象徴するような逸話です。
この後、秀吉から旧北条領を与えられ、江戸城を本拠とした家康は、大坂冬の陣前に自ら小田原城に出向いて、北条氏時代の巨大な外郭を破却します。その際に本丸を現在の鉄道の東側の位置に移して、それまでの小田原城の中枢部を廃棄しました。万一不測の事態が起き、敵が小田原城を利用することを恐れたのかもしれません。小田原城とは、それほどの城だったのです。外郭跡に沿って歩いてみると、その巨大さを今でも実感することができます。
更新:11月22日 00:05