2017年06月23日 公開
2019年05月29日 更新
八王子城跡(本丸への入口)
天正18年(1590年)6月23日、小田原征伐で八王子城が落城しました。このとき、城主の北条氏照は小田原で籠城していましたが、八王子城陥落の悲報に北条軍は意気消沈。小田原城は降伏開城し、氏照は兄・氏政とともに7月11日に切腹しました。今回は、優れた武将として知られる氏照についてみていきましょう。
氏照は天文9年(1540、翌年、翌々年説もある)、北条氏康の3男として生まれました。永禄2年(1559)、20歳の時に関東管領上杉憲政の重臣で武蔵守護代、滝山(横山)城主・大石定久の娘を娶り、養子となって家督を譲られ、大石源三氏照と名乗ります。最近の研究では、当時はまだ滝山城は築城されていなかったという説もあるようです。定久が隠居後、大石領は北条氏康の支配化に入り、氏照は滝山衆を自らの家臣団に組み込みました。氏照はこの頃、姓を北条に戻したのであろうといわれます(そうではなく、生涯大石姓で通したという説もあります)。
永禄7年(1564)には父・氏康とともに第二次国府台(こうのだい)合戦に出陣、安房の里見氏に勝利します。翌年には関宿に出陣、永禄11年(1568)には野田氏の栗橋城接収などを行ないました。同年、甲斐の武田信玄が甲相駿同盟を破棄して今川氏を攻めたため、北条氏は武田氏と敵対することとなり、氏照は弟の氏邦とともに越後の上杉謙信の許に赴いて、翌年、越相同盟を結ぶなど、外交面でも活躍します。しかしこれによって、滝山城は合戦の舞台となりました。 永禄12年(1569)、武田信玄は北条領に侵攻します。2万の軍勢で碓井峠を越え、9月に北条氏邦の鉢形城を包囲。さらに、これを牽制しつつ滝山城を目指して南下しました。9月26日には武田別働隊の小山田信茂隊1000が小仏峠方面から侵攻、滝山城を守る氏照は2000を迎撃に向かわせますが、それを見越して武田勝頼が滝山城に猛攻をかけます。氏照は二の丸で指揮を執ったといわれますが、武田勢は三の丸まで落とし、滝山城は危機に陥ります。武田勝頼と北条氏照が直接槍を合わせたという伝説が生まれるのは、この時のことでした。しかし小田原城攻撃を目的とする武田軍は滝山城を1日だけ攻撃して、翌朝には姿を消します。その後、武田軍は小田原城まで侵攻して数日城を囲み、撤退しました。そして帰還する武田軍を北条軍が追撃して起こるのが、三増峠の戦いです。氏照・氏邦の軍が山中で武田を待ち伏せし、小田原からの氏康軍と挟撃を目論みますが、武田軍別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃したことで、作戦は失敗しました。
天正6年(1578)、越後で謙信死後の家督争いが起こると、北条氏は一族の上杉景虎(北条三郎、氏照の弟)を支援しようとしますが、上杉景勝が勝利し、武田勝頼がこれを支持したため、武田との関係は再び悪化。氏照は滝山城では防禦の面で心もとないとして、新たに山城の八王子城を築城し居城を移します。織田信長の安土城を模して、石垣で固めた城でした。その後、武田氏が信長、徳川家康に滅ぼされ、その信長も本能寺で斃れて、関東の情勢は目まぐるしく変化します。その中で北条氏は勢力を拡大しますが、多くは氏照の活躍によるものでした。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に際しては、氏照は兄の氏政らと並ぶ主戦派で、小田原城に入って籠城戦を指揮し、居城の八王子城は横地監物を城代に、中山家範、近藤綱秀らの家臣に守らせました。しかし6月23日、上杉景勝、前田利家、真田昌幸ら豊臣軍別働隊1万5000の猛攻を受け、少数の兵と領民、女子供合わせて3000が籠る城は1日で落城。氏照の正室は自刃、他の女性や子供も御主殿の滝に身を投げ、滝の水は三日三晩赤く染まったといわれます。
八王子城落城の悲報は小田原城に籠城する将兵の動揺を誘い、7月5日、当主の北条氏直は降伏。氏照も身柄を移され、11日に検視役が立ち会う中、弟・氏規の介錯で切腹しました。享年51。なお晒し首にされる氏照の首を、家臣の少年が奪還しようとした話も伝わります。
辞世の句は「天地の 清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり」。
更新:11月22日 00:05