2018年03月19日 公開
2022年07月25日 更新
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、如水こと黒田官兵衛孝高が亡くなりました。竹中半兵衛重治とともに、羽柴秀吉を支えた天才的な参謀として知られます。
黒田家はもともと近江佐々木源氏の流れを汲みますが、近江から備前福岡に流れ、官兵衛の祖父・重隆の代に播州姫路へと移り、百姓家に身を寄せました。ところが広峰神社の支援を得て、家伝の目薬を売り始めると飛ぶように売れ、財を成します。
よそ者が商売で成功できたのは、よほど信望を集める人柄だったのでしょう。やがて重隆は播磨の名族・小寺政職の家臣に迎えられます。重隆は家督を嫡男の職隆(官兵衛の父)に譲りますが、職隆も誠実な人柄で、主君・政職は自分の養女と職隆を娶わせて、家老に引き立てるほど信頼しました。
職隆の妻(官兵衛の母)となった政職の養女は明石宗和の娘で、明石家は近衛家の歌道師範を務めていたようです。官兵衛も母に倣って文学に親しみ、彼が生涯側室を持たなかった倫理観は、その影響もあったのだろうといわれます。ちなみに官兵衛の母方の従兄弟である明石景親の子が、かの明石全登であるとされます。
職隆の義理堅さは、小寺家家老となった官兵衛の意見で小寺家が織田信長に与したものの、政職が変心した時に表われます。主君を説得しようとする官兵衛に、父・職隆はこう語りました。「信長公に帰属し、政職様を主君とする以上、信長公にも政職様にも背かぬのが義理。説得に失敗したならば、切腹すべし」。命がけで説得せよと官兵衛を奮起させたのです。
父に背中を押された官兵衛は御着城の政職のもとに赴き、さらに政職の変心の原因となった、摂津有岡城で信長に叛旗を掲げる荒木村重の説得をも試みますが、逆に有岡城で囚われて幽閉されてしまいます。有岡城から官兵衛が戻らないことを知った信長は、裏切りと解釈して人質の松寿丸(官兵衛の息子、後の長政)を殺すよう命じますが、松寿丸は竹中半兵衛によって密かにかくまわれました。官兵衛の人柄をよく知る半兵衛は、裏切ることなど絶対にないと確信していたのです。
一方、官兵衛が主君・政職の策で有岡城に向かわされたことを知った職隆は、「政職様の変心が明らかになった以上、官兵衛が斬られようと、信長公に従うべき」とあくまで信義を第一に説いて、動揺する家臣団をしずめたといわれます。羽柴秀吉の軍師として有名になり、後に秀吉すら恐れたといわれる官兵衛ですが、その根幹には、祖父や父から受け継いだ誠実さ、義理堅さがあったことでしょう。
秀吉は官兵衛の智謀もさることながら、そうした人から信頼される人柄こそを、自分に代わって天下を治められる器として、恐れたのかもしれません。
更新:12月10日 00:05