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信長を苦しめた地・石川県白山市、徹底抗戦した一向宗門徒たち

小阪 大(白山市史編さん室)

鳥越(とりごえ)城跡から眼下を見渡す

鳥越(とりごえ)城跡から眼下を見渡す

圧倒的な力で四隣をねじ伏せたイメージのある織田信長。 しかしそんな天下人に対して、徹底抗戦を挑んだ者たちもいた――。 その舞台となったのは、現在の石川県白山(はくさん)市。ここでどのような 戦いが繰り広げられたのか。出土品から見えてくる戦いの様相とは。 白山市史編さん室の小阪大(こざかゆたか)さんが語る。

 

なぜ加賀の地で門徒たちが力を持ったのか

織田信長に徹底抗戦した勢力というと、大坂の本願寺を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、石川県の白山市の地でも、粘り強く戦い続けた人々がいました。

それについて語るうえで、まず蓮如について触れておきましょう。応仁の乱(1467〜77)が起きた時代は、天候不順や飢饉もあって、多くの人が苦しみました。そんな時代にあって、人々の心の支えとなったのが、浄土真宗本願寺の8代法主・蓮如の教えでした。

蓮如は、誰にでも分かるように阿弥陀如来の教えを説き、全ての人は平等に極楽往生することができるとし、多くの門徒をえて、北陸の地でも布教を始めます。

応仁の乱は、北陸の加賀にも影響を及ぼしていました。西軍に加賀の守護大名・富樫幸千代(とがしこうちよ)が、東軍にその兄・政親(まさちか)が加わり、血族争いが生じていたのです。

この争いで、本願寺の門徒衆が存在感を発揮することとなります。政親方となった門徒衆は、幸千代を加賀から追放。政親を勝利へと導いたのです。

これによって門徒たちはその力を世に知らしめますが、政親から疎まれるようになります。一方の門徒たちも、悪政を敷きはじめた政親に抵抗していきます。

そして長享2年(1488)、門徒たちは政親を自害に追い詰めます。その後、政親の大叔父を守護に擁立するものの、実権は門徒たちが握ることとなりました。

そうした状況を、蓮如の10番目の息子・実悟(じつご)は、「百姓ノ持タル国」と記しています。ここでの「百姓」は、農民だけでなく、地侍や僧なども指す言葉ですが、それからおよそ100年にわたって、門徒たちは加賀の地で力を持つこととなるのです。

 

激戦が繰り広げられた鳥越城

そうした加賀の門徒と信長との戦いのきっかけが訪れたのは、元亀元年(1570)のことでした。

この年、本願寺と信長の戦いである石山合戦が勃発。本願寺11代法主・顕如(けんにょ)は、全国の門徒に対して、信長と戦うよう呼びかけます。

これに呼応して、加賀の白山麓(はくさんろく)と称される白山周辺域でも、山内惣庄(やまのうちそうしょう。白山麓の本願寺門徒組織)の拠点となる鳥越城が築かれました。

築城者は、鈴木出羽守といって、本願寺が山内惣庄の棟梁として派遣した人物とされます。

この白山地域では、天正5年(1577)に、上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した手取川の戦いが勃発しています。上杉謙信は一向一揆を味方にして戦いを有利にすすめます。

ところが天正8年(1580)閏3月、顕如が信長と和睦。鳥越城・二曲(ふとげ)城がある能美(のみ)・江沼郡が織田の領地となります。顕如は、鈴木出羽守と山内惣庄に、織田軍に抵抗しないよう手紙に記しています。

しかし顕如の息子・教如(きょうにょ)は、信長に降伏せず、戦い続ける道を選択。鈴木出羽守と山内惣庄もそれに従い、信長に抵抗し続けるのです。

同年6月、柴田勝家率いる織田軍が山内へと侵攻し、加賀の門徒たちはそれを迎撃。事態を知った顕如は、鈴木出羽守と山内惣庄に戦いをやめるよう再び伝えます。

鈴木出羽守を含む山内惣庄と一向一揆は、織田軍との和議を選び、松任(まっとう)の地へ投降したところ、騙し討ちにあい鈴木出羽守を含む19人の首が安土城下に晒されました(『信長公記』)。

平成18年(2006)に行なわれた松任城の発掘調査では、この頃のものと思われる遺構や甲冑の一部などが発見されており、彼らが命を落とした際、松任城は焼失したとみられています。

とはいえ、戦いは終わったわけではありません。鈴木出羽守を失いながらも、山内惣庄は鳥越城と二曲城を奪還すべく再挙。天正9年(1581)2月のことで、『信長公記』には、上杉景勝と門徒衆が手をあわせて二曲城を奪い返したと記されています。

これは私の見立てですが、加賀への進出を目指していた景勝から、山内惣庄は武器の援助をされていたのではないでしょうか。

この反乱を聞きつけ、織田軍の佐久間盛政が白山麓に攻め入り、最終的に乱を鎮圧。山内惣庄は終焉を迎えるのです。

鳥越一向一揆歴史館に展示されている、鳥越城跡の出土品の鉄砲玉

鳥越一向一揆歴史館に展示されている、鳥越城跡の出土品の鉄砲玉(写真提供:白山市)

山内惣庄の拠点だった鳥越城跡からは、戦いで使用されたと思われる、100点以上の鉄砲玉が出土しています。鉄砲の玉は、通常は鉛(なまり)製ですが、銅製が多く、玉を鋳(い)る際の道具や滓(かす)が発見されています。出土品の中には熱で溶けた銅銭や仏具があり、これらを鋳て玉にした可能性もあります。

加賀の一向一揆はよく知られていますが、その経過をたどっていくと、鳥越城と二曲城で最後まで激しい戦いが展開されていたことと、山内惣庄の知られざる奮闘があったことが浮かび上がってくるのです。

二曲城跡入口の加賀一向一揆・山ノ内門徒衆鎮魂の碑

二曲城跡入口の加賀一向一揆・山ノ内門徒衆鎮魂の碑

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