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手取川の戦い~はねる謙信、逃げる信長

2017年09月22日 公開
2018年08月28日 更新

9月23日 This Day in History

手取川古戦場跡
手取川古戦場跡
 

手取川の戦い。上杉謙信が柴田勝家ら織田軍に圧勝

今日は何の日 天正5年9月23日

天正5年9月23日(1577年11月3日)、手取川の戦いが行なわれました。上杉謙信軍が織田軍を破ったことで知られます。

天正4年(1576)秋、能登へ進攻した上杉謙信を、織田信長に与する畠山氏は七尾城に籠城して迎え撃ちました。畠山氏の当主は若年の春王丸で、実権は重臣の長続連が握っています。七尾城は比類なき堅城として知られ、長らはこの城に籠城するのであれば、謙信の猛攻を凌げると踏んでいました。謙信は周囲の支城を落とすと、兵糧攻めの構えを取ります。戦いが年を越すと、謙信のもとに関東で北条氏政が攻勢を強めているという救援要請が届き、謙信は一度、春日山城に引き上げました。すると上杉勢が攻略していた諸城を畠山勢が奪還、能登の戦況は悪化します。やむなく謙信は天正5年閏7月、一説に2万の軍勢で再び能登に進攻、七尾城を再び囲むと、畠山当主の春王丸が疫病で没しました。この事態に長続連は安土城の信長に救援を要請、これを受けて信長は、柴田勝家の1万8000を援軍として派遣し、自らも3万を率いて出陣します。

しかし、織田の援軍が来る前に、七尾城内では親上杉の重臣・遊佐続光らが反乱を起こして長一族を討ち、9月15日、七尾城は陥落しました。その2日後には西の末森城も上杉勢に攻略されます。しかし、その事実を柴田らの織田軍はまだ知りません。そして9月18日、織田の大軍が加賀と越前を分ける手取川を越えて北上しつつあることをつかんだ謙信は、七尾城を出て南下、手取川近くの松任城に入りました。柴田らが謙信の松任城入城を知ったのは、全軍が手取川の渡河を終えた後であったといいます。柴田はすぐ近くに謙信が待ち構えていることに驚き、軍を反転させました。

この好機を謙信が逃すはずがありません。時に9月23日夜。激しく雨が降る中、闇をついて謙信は織田軍に襲い掛かりました。越後勢の猛追撃を受けた柴田らは、水嵩の増した手取川の渡河に手間取り、およそ1000の将兵が討たれ、さらに多数の溺死者を出したといわれます。謙信の圧勝でした。 「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首はよく知られています。信長が率いる織田軍本隊3万は、この戦いには参加していませんが、信長は謙信の強さを恐れたといわれます。

能登を制圧した謙信は、12月18日にはひとまず春日山城に帰還しました。

「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ、家郷遠征を憶う」

一説に陥落間際の七尾城外で謙信が詠んだ詩であるといわれます。謙信の作でないにしても、当時の彼の心境を思わせる詩といえるでしょう。なお謙信は翌年の3月15日に、改めて出陣する予定でしたが、3月9日に倒れ、13日に没しました。出陣の先は関東であるとも、また京を目指したともいわれます。

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