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武田信玄と上杉謙信 「川中島合戦の謎」

2013年02月01日 公開
2022年07月21日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

『歴史街道』2013年3月号[特集・川中島合戦の謎]より

川中島の上杉謙信と武田信玄

 

謙信と信玄、名将2人の決戦は戦国史上最も謎に満ちていた!

意外にも、川中島合戦の実態はほとんどわかっていない。
その理由は、基本史料となる『甲陽軍鑑』の評価にある。
現在流布する通説のベースとなった『甲陽軍艦』は、実は明治時代に史料的価値を疑われた。
近年再評価をされてはいるが、事実誤認があることも明らかなのだ。

通説に対して今、どんな疑義が呈されているのか。

 

なぜ、両雄は戦い続けたのか

軍師・山本勘助が献策した武田軍の「啄木鳥戦法」、上杉軍の車懸りの陣、武田信玄と上杉謙信の一騎打ち…。

永禄4年(1561)の第4次川中島合戦は様々な名場面に彩られ、戦国合戦の中でも特に広く知られています。それだけでなく、死傷者が両軍あわせておよそ8000という戦国最大級の激戦でもありました。

ところが意外なことに、川中島合戦がどのような戦いだったのか、実態はほとんどわかっていません。確実な史料が少なく、どこまでが史実なのか定かでないのです。それゆえ「啄木鳥戦法はなかった」など、現在に至るまで様々な説が提唱されており、戦国史上、「最も謎に満ちた戦い」といっても過言ではありません。

では、川中島合戦とは何であったのか。まずは、信玄と謙信が干戈(かんか)を交えることになった背景からお話ししましょう。

発端は、天文22年(1553)に遡ります。この年、信濃制覇を目指す信玄が、村上義清らを越後の謙信のもとに追い落としました。これを受けて謙信は、信濃諸将の旧領を回復すべく信玄との対決を決断します。以後、両雄は永禄7年(1564)に至るまで、川中島を舞台に5回も戦うこととなりました。中でも第4次が最激戦だったことから、一般に川中島合戦というと、この戦いを指します。

不思議なのは、戦いが12年もの長きにわたったことでしょう。普通は1、2度戦って決着がつかなければ、同盟に踏み切るものです。なぜ、2人はそうしなかったのか。私は信玄の側に、大きな要因があると考えます。

信玄は相模の北条氏康、駿河の今川義元と甲相駿3国同盟を締結しており、進むべき道は北と西しか残されていませんでした。そして山国・甲斐の領主である信玄には、海のある越後は魅力的であり、北進を決断したのでしょう。それに対して謙信は、本国の防衛もありますが、「義の人」らしく、信濃諸将を助けるべく信玄と戦い続けたのだと思います。

川中島の地勢も、戦いを激化させることになりました。その名が示すように川中島は、千曲川と犀川に挟まれた中洲であり、信濃一といってもよい穀倉地帯でした。それだけに、信玄は是が非でも押さえたかったはずです。一方、謙信にすれば居城の春日山城まで約70キロの近距離であり、防衛上、決して欠くことのできない要地でした。

こうした対立構造の中で、永禄4年の第4次合戦を迎えます。しかし、この戦いがとりわけ激戦となったのは、謙信の側に大きな要因があったでしょう。基本的には、第3次までは信玄が先に攻め、謙信がそれを押し返すという流れですが、この戦いに限っては謙信が先手を打っています。

謙信の態度に変化をもたらしたもの。それはこれまで言及されてきませんでしたが、私は前年の桶狭間合戦が大きく影響したと見ています。この戦いで今川義元が討死したことにより、謙信は「甲相駿三国同盟を瓦解させる好機」と捉えたのではないでしょうか。だからこそ信玄との決戦直前に、小田原城に拠る北条氏康も攻めているのでしょう。第4次川中島合戦は、桶狭間と連動する戦国時代の大きなうねりの中で起きていたのです。

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通説を生みだした『甲陽軍鑑』 >

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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