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武田信玄と上杉謙信 「川中島合戦の謎」

2013年02月01日 公開
2022年07月21日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

謎が謎を呼ぶ諸説

特に疑問視されているのが、「啄木鳥戦法」です。真夜中とはいえ武田軍別働隊の動きを謙信に察知されないわけがない、信玄がそんな作戦を立てるだろうか、といった見方が古くからあります。また、迂回ルートでは時間がかかりすぎるという指摘もあります。

私も迂回ルートとされる道を実際に歩いたことがありますが、道幅が狭く、夜中に大軍が移動するのは困難だと感じました。また不自然なのは、武田軍本隊より別働隊の方が人数が多い点です。これは明らかに合戦の常道に反しており、啄木鳥戦法については再検証の余地があるでしょう。

念のため付言すると、『軍艦』は「啄木鳥戦法」という名称は使用しておらず、別働隊の攻撃ルートも明示していません。通説の啄木鳥戦法は、後世の解釈によって創作された部分もあるのです。

謙信の「妻女山布陣」も議論されています。敵勢力下の妻女山に布陣すれば、越後への退路を断たれる恐れがあり、謙信がそんな危地に赴くだろうか、というのです。また最近では、妻女山付近には武田方の城砦群があり、「それらを攻略して、上杉軍が妻女山に布陣するのは困難」とする見方も出されています。妻女山後方には鞍骨城、川中島西側には横田城などの城砦があったという指摘です。

私が横田城跡を見た印象では、謙信が攻略できぬほどの城であったかどうかは正直わかりませんでした。一方、妻女山に登ると、当時つくられたものかはわかりませんが、曲輪を思わせる遺構もあり、妻女山布陣を完全には否定できないと思いました。

両軍の死傷者が約8000に及んだことも、疑問を呼んでいます。決戦の結果として、この数自体は妥当と思われます。しかし『軍鑑』が記した通りの白兵戦であれば、戦いの常識として、これほどの損害が出る前にどちらかが撤退するはずだというのです。そのため両軍は行軍中、濃霧のために意図せずして衝突し、大混戦の中で死傷者を増やしたのではないか、という「不期遭遇戦」説があります。

これも史料では立証できないので、何ともいい難いものです。ただ以前、私は旅行会社の企画で合戦当日(新暦の10月28日)に、川中島を訪ねたことがありますが、その日の早朝、川中島は深い霧で覆われていました。それを踏まえると、霧の中の衝突は、可能性としては高いのかもしれません。

これら以外に、地元に残された伝承にも興味深いものがあります。例えば、両軍の激戦地とされる八幡原の西側には旧川中島神社と陣馬公園があり、伝承によると合戦の際、両軍のいずれかが陣を構えたといいます。そうなると、戦いの状況も異なる可能性が出てきます。また飯山市では、謙信側の勢力圏だったにもかかわらず、「上杉軍が逃げてきて、川に架かる橋を切って落とし、武田軍の迫撃を免れた」という伝承も残ります。

こうして見ると、第4次川中島合戦がいかに謎に満ちた戦いかが、おわかりいただけることでしょう。桶狭間合戦や長篠合戦も諸説ありますが、それらに比べても、あまりにも全容が謎めいているのです。

最後に、川中島合戦の歴史的意義についてお話ししましょう。戦いの実像がわからないとはいえ、第4次合戦で信玄と謙信が戦国最大級の死闘を演じたのは事実であり、その後も両者は戦い続けました。歴史に残る名勝負ですが、あえて酷な言い方をすると、両者にとっては痛恨の戦いともいえます。激闘のとい間に、織田信長の台頭を許してしまったからです。仮に信玄と謙信が同盟、もしくは和睦していれば、戦国史は大きく変わったはずです。

一方で、どちらかが勝っていれば、その勝者が信長を圧倒していてもおかしくはありません。そうすると、織田、豊臣、徳川と受け継がれた天下人の系譜が変わっていたかもしれないのです。つまるところ、川中島合戦は単なる名勝負にとどまらず、現在に至るまでの日本史の流れを左右した、一大合戦というべきものだったのです。

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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