2017年05月19日 公開
2022年06月15日 更新
永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の合戦において、駿遠参の大大名・今川義元が、織田信長によって討たれました。
永禄3年5月19日早暁。今川軍が丸根・鷲津砦に攻め寄せたという報せに、信長は「敦盛」を舞うと、自ら尾張清須城を発します。今川義元率いる2万5000の軍勢に対し、信長の手勢は僅か3000。誰の目にも勝敗は明らかでした。が、今川軍が丸根・鷲津砦をやすやすと落とし、桶狭間のくぼ地に陣を布いて休息しているという情報に接した信長は、山中を迂回し、折からの風雨を衝いて突如、本陣を奇襲、義元を討ち取った…というストーリーは時代劇でもよく描かれ、桶狭間の「通説」としてよく知られています。
ところが、この「通説」は、明治時代に陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 桶狭間役』に拠るもので、実は『日本戦史』自体が、創作性が強く信憑性の低い小瀬甫庵の『信長記』などをもとに記述されていたことが明らかとなり、「通説」に対する疑問や問題点が最近、数多く指摘されています。
さらに史料的価値が高いとされる太田牛一の『信長公記』に拠ると、桶狭間の合戦の様相はこれまでと全く変わってしまい、研究者の間でも意見が割れているのが現状なのです。
以下、桶狭間の最新説を簡単に紹介してみましょう。
今川軍2万~2万5000、織田軍6000(信長本隊は2000)という見方が多い。ただし今川軍の大半は非戦闘員で分散布陣しており、桶狭間の義元本陣は5000程度。一方、信長本隊の2000は全員戦闘員であり、両者の兵力差はそれほどなかった。
従来は上洛目的とされてきたが、上洛途上の諸大名に通過を交渉した形跡はない。まして織田、斎藤、六角などと戦いながら上洛するのは現実的には不可能である。そうなると、まずは大高、鳴海地域を安定化をめざし、あわよくば清須城を攻略して織田家を従属させる。つまり尾張平定作戦の一環であったという見方が現代では一般的になりつつある。
従来は織田信長による迂回奇襲作戦とされてきたが、『信長公記』は正面から攻撃したとある。また義元本陣は桶狭間のくぼ地ではなく、「おけはざま山」と呼ばれる丘陵地に置かれていたという。しかし、正面から姿をさらしたまま山上の敵を攻めて勝つことが果たして可能なのか。信長の進撃ルートも含めて、論者ごとに意見が分かれている。
実は桶狭間山という山は昔から存在せず、桶狭間一帯の丘陵地帯を指すものと思われる。一方、討たれた地は名古屋市の桶狭間古戦場公園と豊明市の桶狭間古戦場の二つの候補があり、これも意見が分かれている。
ざっと挙げても以上のように、従来の説と随分変わってきており、また不明な点が多いことがおわかりいただけると思います。
なお現地を歩くと伝承が多く、たとえば名古屋市緑区有松町桶狭間には「セナ薮」という今川方の瀬名氏俊の陣地跡や、瀬名が軍評定したという「戦評の松」があり、義元本陣を据えるために瀬名が先遣部隊として送られてきていたことが窺えます。また桶狭間は大高城に至る大高道と三河街道、近崎道が交差する地で軍勢の移動に都合がよく、さらに水が豊富なので、大軍が休息をとるのに適していたのでしょう。
桶狭間古戦場公園一帯は田楽坪とかつて呼ばれて深田が広がり、この地にあった「ねず塚」から「駿公墓碣」と彫られた墓碑が出土した点などからも、義元が討たれたのはこの辺りではないかという気がしますが、はたしてどうでしょうか。
更新:11月21日 00:05