2017年05月12日 公開
2022年06月15日 更新
天文3年5月12日(1534年6月23日、異説あり)、織田信長が生まれました。 今回は、若い頃の信長を紹介しましょう。
天文3年5月12日、信長は織田信秀の嫡男として、那古野城で生まれました(勝幡城説もあり)。幼名、吉法師。母親は信秀正室の土田(どた)御前。 信秀の弾正忠織田氏は、尾張守護・斯波氏のもとで下四郡守護代を務める清洲城の大和守系織田氏の三奉行の一家に過ぎません。いわば国人領主クラスの信秀ですが、次第に勢力は守護代を凌ぎ、尾張を代表する戦国大名へとのし上がっていきます。その後押しとなったのが、経済力でした。舟運の要衝である津島湊、伊勢湾舟運の要である熱田などを活用し、大きな収益を上げていたのです。僅か2歳で那古野城主となった信長も、父親のこうした経済手腕を見ながら成長し、後年、参考にした部分は多かったことでしょう。
信長が幼少の頃から奇矯な振る舞いが多く、周囲から「大うつけ」と呼ばれていたことはよく知られます。外に出て、町の若者とも分け隔てなく接し、乗馬、水泳、兵法稽古、鷹狩と暴れまわっていました。 また今川家に人質に向かうはずのところ、織田家に送られた松平竹千代とも親しく接しています。
天文15年(1546)、13歳の時、古渡城で元服し、三郎信長と名乗りました。信長の名は、信秀の依頼で禅僧沢彦が選んだともいわれます。 翌年、傅役の平手政秀が後見役となって、初陣。今川方の吉良・大浜城周辺に火をかけるなど、攻撃しました。
天文17年(1548)、平手政秀の尽力で、信秀が干戈を交えてきた美濃・斎藤道三と和睦が成り、道三の娘・濃姫(帰蝶)との婚儀が決まります。
天文21年(1552)、父・信秀が急死。家督を継いだ信長は、万松寺で行なわれた大葬儀に、長つかの大刀、脇差を腰に巻いた荒縄に差し、髪は茶筅に逆立て、袴もはかずに仏前に進み、抹香をつかむと、くわっと仏前に投げて帰ったといいます。 礼儀正しい弟・信行(信勝)と比べて、参列した人々は「三郎どののうつけぶりよ」と呆れますが、信長にすれば、信秀の急死で諸勢力が鵜の目鷹の目に尾張を注視している中、呑気に大葬儀などしている場合か、という気持ちだったのでしょうか。
実際、信秀の死を境に、鳴海城主の山口父子が今川義元に寝返り、尾張国内にも不穏な空気が広がりました。そんな中、翌天文22年(1553)、傅役の平手政秀が諫死。信長にすれば家督継承早々、信頼する数少ない家臣に死なれ、辛いところであったでしょうが、嘆いている暇はありません。同年4月、信長は800の手勢で倍する数の山口父子と赤塚で戦い、決着はつかなかったものの、敵対する者を許さない姿勢を示します。
この戦いの直後(異説では天文18年とも)、信長は舅の道三と、濃尾国境の寺で初めて対面しました。うつけた姿から一転、礼法にかなった正装で現われた信長に道三は驚かされ、さらに信長の軍勢の長槍と鉄砲の数に舌を巻いた道三は、信長への認識を改めます。
天文23年(1554)、今川義元の駿河勢が尾張に侵攻して村木砦に拠り、緒川の水野信元を攻めました。この事態に信長は、舅の斎藤道三に援軍派遣を要請、道三は快諾して援軍を那古野近くまで送ります。斎藤軍の後援を得た信長は、暴風をついて緒川まで渡海。翌未明、信長は村木砦に攻めかかり、見事に落としました。信長の作戦と勝利を援軍の将から報告を受けた道三は、「すさまじき男、隣にはいやなる人」と本音を漏らしたとか。
その後、主家にあたる守護代・織田大和守信友が、信長の家督に不満を抱いて弟の信行を推す中、信友が守護・斯波義統を殺害する事件が起こります。 これを機に、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力して、信友を討ち、清洲城を手中にしました(萱津合戦)。
弘治2年(1556)、舅の斎藤道三が息子の義龍に討たれると、尾張国内の反信長派が好機として、弟・信行を擁して挙兵、稲生の戦いとなります。しかし信長はこの戦いに勝利し、翌年、信行が再び謀反を企てたため、信行を討ちました。
さらに永禄元年(1558)、尾張上四郡の守護代・織田信賢を浮野の戦いで破り、信長は翌年、ようやく尾張統一を果たします。時に信長、26歳。桶狭間の戦いは1年後のことでした。
更新:11月22日 00:05