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豪商・本間光丘~「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」

2017年06月01日 公開
2019年05月29日 更新

6月1日 This Day in History

本間家旧邸

今日は何の日 享和元年6月1日

出羽酒田の豪商・本間光丘が没

享和元年6月1日(1801年7月11日)、本間光丘(みつおか)が没しました。出羽酒田の豪商として知られます。

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」 江戸時代に出羽庄内地方では、そんな俗謡が歌われました。意味は「本間様にはとてもなれないが、せめて殿様になりたい」というものです。本間様とは酒田の豪商ですが、商人にはとてもなれないが、せめて大名になりたいというところに、当時の本間家の繁栄ぶりをしのぶことができるでしょう。

享保17年(1733)12月、光丘は酒田本町の商人・本間庄五郎光寿(みつとし)の2男に生まれました。通称は久四郎、後に四郎三郎。 寛延3年(1750)、18歳の時に父の命により、播磨国姫路の商家・奈良屋に住み込んで、商人としての修行を積みます。

宝暦4年(1754)、父が没したため、22歳の光丘は本間家を相続しました。父の業績があったため、光丘はその年、酒田町の長人(おとな)を務めることになります。宝暦6年(1756)、酒田地方に大災害が起こると、光丘は窮民救済のために米100俵を供出。庄内藩主・酒井忠寄(ただより)はこれを賞しました。

宝暦8年(1758)には酒田の西浜に防砂林をつくります。今風にいえば商売で得た利益を地域に還元し、公共事業を行なうようなものでした。この時、光丘は26歳。

同年夏、藩命によって江戸に出た光丘は、酒井家江戸屋敷の財政に関わります。2年後には財政難の藩に3140両を献納し、その篤志を大いに賞せられました。 宝暦12年(1762)、30歳の光丘は、西浜防砂林建設の功により、町の年寄格に任ぜられます。翌年、光丘の発案による「酒田町防火用積立金」の制度が始まりました。

宝暦14年(1764)には、父祖の遺志として藩に1000両を献納し、その利子を藩主の菩提所や城の修繕費にあてることを願って許されました。藩とすれば、これほどありがたい商人もいなかったでしょう。

明和2年(1765)には長年の功績を認められ、藩主・酒井忠寄より紋章時服1領と、金500疋を与えられ、はじめて藩主に謁見することを得ました。 明和3年(1766)に忠寄が没すると、忠温(ただあつ)が継ぎますが、翌明和4年(1767)に忠温が没したため、忠徳(ただあり)が襲封します。忠徳は疲弊する藩財政を憂えて、財政改革を決意。その推進役として、光丘を抜擢します。

明和4年、光丘は35歳にして御小姓格となり、武士となりました。そして「御家中勝手向取計」を命ぜられて、正式に藩の財政改革に乗り出すことになるのです。以後、光丘は寛政9年(1797)に65歳で退任するまで、一貫して藩財政を好転させるべく努力を続けました。光丘は金融業を行なっていますが、その相手は小口融資の庶民から、大名にまで及んでいます。そして藩の後ろ盾があっても決してその威を借りる態度は取らず、たとえば担保として土地を押さえても、借り手に「土地をいったん預かるが、買い戻すよう努力してほしい」と促しました。 そのため利子は極力低利とし、返済期間も長期を認めました。場合によっては100年賦でもよいとしています。このため光丘は、借り手から絶対に憎まれなかったといわれます。

また自ら自費を投じて、困窮する武士相手の金融機関を立ち上げ、武士の救済にもあたりました。そして武士に対しても「金は貸すが、必ず自身の財政再建計画を立て、借りた金をどのように返すのか明示してほしい」と求めます。手を差しのべ、低利で融通するが、借りた側にも、もう二度と借りなくてもいいように、自分の生活態度を改めることを求めたわけです。

こうした光丘の姿勢は米沢藩主・上杉鷹山の知るところとなり、鷹山に請われて、米沢藩の財政再建策にも大きく貢献しました。光丘の考え方は、鷹山の考え方と符合していたといわれます。

享和元年、光丘没。享年69。商売とは結局、何を目指すものなのか。光丘は大切なことを示唆しているのかもしれません。

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