2021年は武田信玄生誕500年。戦国武田家の歴史を再検証する動きが多くみられるが、この記事では武田家が滅亡した瞬間について取り上げたい。日本を代表する戦国武田氏の研究者が、木曾義昌や穴山梅雪に裏切られて窮地に追い込まれ、さらには小山田信茂の離反によりなす術がなくなった勝頼の最期を描く。
※本稿は、平山優著『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
小山田信茂に叛かれた勝頼は、完全に進退窮まった。勝頼主従は、11日朝、駒飼を発ち、鶴瀬を経てやむなく天目山棲雲寺を目指し、日川渓谷に入った。勝頼主従は、田野(たの)にたどり着き、さらに山道を進もうとしたが、これを知った天目山の地下人たちや、変心した甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守が手を携えて、勝頼主従に鉄炮を撃ちかけ、入山を拒んだ。辻弥兵衛も、近隣の百姓らを率いて、勝頼の命をつけ狙ったという。
かくて勝頼主従は、田野に引き返さざるを得ず、ここで立ち往生してしまったのである。
この時、勝頼主従を追いかけて来た人物がいた。武田譜代(代々仕えている重臣)小宮山内膳である。彼は跡部勝資・長坂釣閑斎・秋山摂津守らと不仲であったため、勝頼の不興を買い、逼塞を命じられていた。内膳は、土屋昌恒に取次を乞い、三代の御恩を果たすべく供をしたいと申し出た。これには、土屋や秋山紀伊守らも感動し落涙した。内膳は、土屋昌恒の許可を得て、伴ってきた生母と妻子を、弟の小宮山又七と同心の脇又市に託し、落ち延びさせた。そして小宮山は、この時、自分を陥れた秋山摂津守や長坂釣閑斎らが、すでに逃亡していたことを知り、悲嘆したという。
勝頼は、田野で滅亡することを覚悟した。そこで、これまで扈従(こじゅう)してきた麟岳和尚(武田逍遙軒信綱の子、勝頼の従兄弟)と、北条夫人に落ち延びるようすすめた。だが麟岳も北条夫人も毅然とこれを断り、ともに冥土黄泉までも同道すると誓ったという。勝頼らは、別れの盃を酌み交わし、最後の準備に入った。
いっぽう、滝川一益(かずます)は、勝頼らが駒飼の山中に引き籠もったとの情報を摑み、付近を探索した結果、遂に彼らの居場所を発見した。敵影を発見したとの知らせが、勝頼に報じられると、跡部勝資は動揺し、勝頼に小山田の変心で郡内に入れない以上は、この地域の地下人を計策して天目山に入り、世の中の情勢を伺うべきだと言上した。これに怒った土屋昌恒は、次のように主張した。
「跡部の言い分は未練です。そのような無分別な意見を言いつのってきた結果が、このような有様になり、御家滅亡に追い込まれることになったのです。よくよくお考えいただきたい、小山田が敵となり、天目山の地下人にも叛かれた不運のもとでは、もはやいかなる鉄城、鉄山に立てこもろうとも、運が開けるとは思えません。侍は死ぬべき場所で死ななければ、必ず恥を見るといわれているのは、よくご存じでしょう。源氏の祖八幡太郎義家も、侍たる者は死ぬべきところを知ることが肝要だと仰っておられたはずで、今こそそれを思い起こすべきです。たとえ小勢であっても、新府城に踏みとどまり、敵が寄せてきたなら命を限りに戦い、矢尽き弓が折れたら一門がそこで自刃してこそ、代々の武田の名を顕し、信玄以来の武勇を残せたのに、小山田のような恥知らずを信じてここまで逃れて来て、卑夫の鏃(やじり)を受け、一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱とは思いませんか。戦の勝ち負けは、時の運によるものなので、戦って敗北することは恥辱ではありません。ただ戦うべきところで戦わず、死ぬべきところで死なぬことは、弓矢の家の瑕瑾というべきです。
ある書物に、進むべきを見て進まざるを臆将といい、退くべきを見て退かざるを闇将という。だから合戦の進退は、つまるところ分別工夫によるものと心得ます。
跡部勝資の分別は、軽率であり、ここに及んで今更言っても仕方ないが、もはや胸臆を包み隠さず申し上げれば、先年御館の乱で景勝と景虎が争った時、景虎に対し不義の行動をとったが故に、武田氏は天下に悪名を乗せ、諸人の嘲笑を買ったのです。甲相同盟が破綻し、それまでの重縁が切れて怨敵となり、その結果が今の状況です。小山田を始め、多くの恩顧の人々が武田家を見放したのも、ここから始まっているのです。敵は余所にはいないものです」
土屋昌恒は、一度は怒り、あとは落涙しながら主張すると、跡部は赤面し平伏したまま一言も抗弁できなかったという(『甲乱記』)。
まもなく、遂に滝川一益の軍勢が姿を現した。土屋昌恒らが、弓矢を携え、迎撃に向かった。『三河物語』によると、この時に跡部勝資が馬に乗って逃げ去ろうとしたといい、怒った土屋に射落とされ、落馬したところを敵に討たれたという。
更新:11月21日 00:05