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武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは

2021年10月27日 公開
2023年03月31日 更新

平山優(日本中世史研究家/大河ドラマ『真田丸』時代考証)

土屋惣蔵片手切りの碑
土屋惣蔵片手切りの碑
土屋惣蔵(昌恒)が武田勝頼に自害の時を与えるため、片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにしつつ敵を切り伏せ続けたという「片手千人斬り」の伝説を伝える碑。

 

勝頼の嫡男・信勝、北条夫人の死

土屋は、矢束を解き、細い橋を頼りに、日川を越え攻め寄せてくる敵を、次々に射落とした。矢が尽きると、土屋は太刀を振りかぶって、敵2、300人が控えている真ん中に切り込んだ。土屋の後に安西伊賀守・小山田式部丞・秋山源三・小宮山内膳らが続き、小勢ながら死に物狂いで戦ったので、織田方は切り立てられ、甚大な被害を受けたという。

だが、敵は多勢で、次第に追い立てられ、勝頼の近くにまで敵兵が現れ始めた。武田信勝は、当時十六歳であったが、父勝頼と並んで敵を切って廻り、その姿は勇猛さと華麗さは周囲の目をひくほどであったという。だが信勝の股に、鉄砲の流れ弾があたった。信勝は、父勝頼に今生の別れを告げると、麟岳和尚とともに敵中に切り込んだ。やがて信勝と麟岳は、脇指を抜き持つと、刺し違えて息絶えた。これを見た信勝側近河村下総守も、信勝に殉じて自刃した(以上『甲乱記』、なお『軍鑑』『理慶尼記』は、信勝は自刃と記録されている)。

信勝は享年十六であった。

信勝の辞世の句は「あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほどは 春の夜の夢」と伝えられている(『理慶尼記』)。なお、記録を見る限り、信勝はこれが敵と刃を交えた初陣と見られ、彼にとって田野合戦が最初で最後の戦場となったと推察される。勝頼は、敵との死闘が始まると、安西伊賀守・秋山紀伊守をして、北条夫人に小田原へ帰り、自分の菩提を弔ってくれるよう伝えた。だが北条夫人は頑として聴かず、小田原から付いてきた侍臣早野内匠助・劔持但馬守・清六左衛門・同又七郎(六左衛門の弟)を召し寄せ、ここから脱出して小田原の実家に文と遺髪を届けるよう命じた。彼らは、拒んだが、北条夫人の強い下命に抗えず、涙ながらに承知した。北条夫人は、髪を少し切り、文に添えて渡したといい、「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消る 露の玉の緒」との辞世の句を詠んだという。だが4人のうち、劔持但馬守だけが、北条夫人の許しを得て残留し、3人に脱出を命じた。彼らは、小田原に向けて田野を離れた。

まもなく、北条夫人の近くにも、鉄炮の弾が着弾するようになると、彼女は法華経の第五巻を静かに読経した後、自刃して果てた。上臈(じょうろう)や侍女たちもこれに続いた(『甲乱記』『理慶尼記』)。彼女の介錯は、勝頼自らつとめたといい、彼は北条夫人の遺骸を抱いたまま、しばらく言葉がなかったという。北条夫人は、享年十九であった。

 

勝頼の辞世の句

やがて勝頼は、向かってくる敵を次々に斬り伏せ、壮烈な最期を遂げたという。勝頼の最期については、戦死したという記録(『軍鑑』『三河後風土記』『当代記』など)と、自刃したという記録(『甲乱記』『理慶尼記』『三河物語』など)があり、定まっていない。

なお、『理慶尼記』に、勝頼の辞世の句が記録されている。

 朧(おぼろ)なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛(ゆくえ)の 西の山の端(は)

これを受けて、土屋昌恒が詠んだ返歌は、「俤(おもかげ)の みをしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山の端(は)」であったという。勝頼は享年三十七であった。

北条夫人、信勝、そして勝頼が相次いで死ぬと、小宮山内膳が「大将ははや夫婦ともに自害なされた。誰のために戦っているのか」と呼ばわった。土屋昌恒や安西伊賀守らはこれを聞くと「人を斬るのが面白くて、大将のお供に付いていかなかったのは残念である。ではもう一度最期のひと戦をして腹を切ろう」と言いながら、大軍の中に切っ先を揃えて突入し、獅子奮迅の働きをした。しかし多勢に無勢で、彼らはみな討たれてしまったという(『甲乱記』)。なお『理慶尼記』によると、土屋昌恒、金丸助六郎、秋山源三の三兄弟は、最後は互いに差し違えて死んだと記している。正午まで、武田方で生き残っている者は一人もいなかった。

最後の戦いが始まってまもなく、侍女たちは次々に自害しており、男たちだけが、後顧の憂いなく戦い抜き、散華(さんげ)していった。勝頼に殉じた人々について、確実な記録は残されていない。その人数や姓名は、記録によってまちまちである。現在、伝えられる殉死者は36人であり、上臈、侍女は16人だったというが、これ以上の詳細は判然としない。ちなみに『信長公記』は、殉死した侍分41名、上臈・侍女は50人、『軍鑑』は、家臣は44人だったとするが、その詳細は明らかにならない。

ただ、殉死した家臣は、勝頼の高遠時代以来の家臣が多く、その他に諏方衆とみられる人物も見受けられ、武田譜代は土屋・秋山兄弟が目立ち、跡部・河村・安西氏と、小山田一族が散見される。しかし、山県・原・内藤・馬場・春日などの上級譜代の縁者は一人もいない。高遠城の奮戦といい、殉死者の構成といい、勝頼はやはり武田勝頼ではなく、どこまでも諏方勝頼としての運命を背負っていたとの印象が強い。

天正10(1582)年3月11日巳刻(午前10時頃)、戦国大名武田氏は田野で滅亡した。

 

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