武田信虎・信玄・勝頼の戦国武田三代には、強烈な源氏意識があったという。その源氏名門としての誇りと、足利将軍家への絶対的な忠誠を行動原理にして、武田家は織田信長との戦いに身を投じていくことになる――。
※本稿は、平山優著『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
もし、「御旗(みはた)・楯無(たてなし)もご照覧あれ」という言葉を知っているとすれば、あなたはかなりの歴史通だ。この言葉は、甲斐武田家において、重大な決定を下す時に、当主が家宝の御旗・楯無に誓約するときに発するもので、もしこの言葉が発せられれば、誰も覆すことも、反対することも許されないという不文律があったといわれる。
天正3(1575)年5月の長篠合戦前夜、諸将が反対するなか、武田勝頼が、自ら決戦の決断を下し、御旗・楯無に誓約したので、もはや誰も反論できなくなったという逸話は著名である。
これは、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)巻19に記されているものである。同書には、長篠で、山県昌景(まさかげ)・馬場信春らの宿将が「御一戦なさるのはおやめください」と懸命に諫言したところ、勝頼と跡部勝資(あとべかつすけ)、長坂釣閑斎(ちょうかんさい)は「決戦すべきだ」と主張して譲らなかった。
やがて勝頼が「明日の合戦はもはややめられぬ」といい、御旗・楯無に御誓文をなされたので、その後は誰もものを言うことが出来なくなったと記されている。
この御旗・楯無とは、武田家に重代伝えられた家宝で、御旗は日の丸の旗、楯無は鎧のことを指す。これらの逸話は、御旗・楯無が、武田家にとって神聖な家宝であると同時に、信仰の対象でもあったことをよく示している。
『軍鑑』をていねいにたどっていくと、御旗・楯無に関する記述が散見でき、どのような場面で用いられたのかが、よくわかる。
例えば、巻10に、信虎追放の画策を、信玄らと練っていた甘利備前守虎泰は、八幡大菩薩と御旗・楯無の前で籤(くじ)を取り、信虎に逆心し彼を追放しても、甲斐はもちろん、信虎が奪取した信濃の領土も安泰であるとの結果を得て、クーデターに踏み切ったとある。
また、同書巻20に、勝頼の発言として「(武田家が)滅亡するとしても、信長に膝を屈することなど、御旗・楯無も照覧あれ、絶対にありえないことだ」とある。
ただこれは『軍鑑』の記述であり、史実とはいえないのではと思われる方もいるだろう。かつて、若い頃の私も、そのように疑っていた時期があった。
しかし、御旗・楯無は、同時代史料にちゃんと登場するのである。その事例を紹介しよう。それは永禄10(1567)年、武田信玄が、家臣、国衆、およびその陪臣の有力者ら237人より提出させた起請文である。
世に、「生島足島(いくしまたるしま)神社起請文」「下之郷起請文」として名高い起請文のうち、武田信廉(のぶかど・信玄の弟)、浅利信種(譜代[代々仕えている重臣]、箕輪城代、西上野郡司)、長坂昌国(譜代、長坂釣閑斎の子)、室住(もろずみ)昌守(譜代、第四次川中島合戦で戦死した室住豊後守虎光の子)、鮎沢虎盛(譜代)の起請文末尾に記された神文(罰文)に、御旗・楯無が登場する。ここでは、長坂昌国の事例を紹介しよう。
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右、一事たりといえども、違反に存さば、梵天、帝釈、四大天王、惣じて日本国中の大小神祇、殊には八幡大菩薩、冨士浅間大菩薩、熊野三所大権現、諏方上下大明神、甲州一二三大明神、別しては御籏・楯無の御罰を蒙(こうむ)り、今生においては癩(らい)病を享け、当来に至っては、無間地獄に堕在致すべきものなり、よってくだんのごとし
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中世の起請文の末尾には、神文(罰文)といって、神仏を列挙し、誓約を破ったら、これらの神仏の罰を受けてもかまわないと明記した重要な部分があった。神文に記される主要な神仏名は、定型化する傾向にあったが、その他には、地域固有の神仏を書き込むのが通例であった。
ところが、この起請文には、神仏と併記されながらも、一線を画す形式で「とりわけ御旗・楯無の御罰を蒙ります」と記述されているのだ。『軍鑑』の記述は、出鱈目ではなかったことがわかる。
それでは御旗・楯無について、詳しく紹介していこう。まず、御旗は、現在、裂石山雲峰寺(さけいしざんうんぽうじ・寺甲州市塩山上萩原)が所蔵する、日の丸の旗のことである。
現存する御旗は、縦1.39メートル、横1.57メートル、日の丸の径1.26メートル、日の丸は赤で染め出されたもので、生地は白平絹地を縦四枚続きに縫い合わせたものである(『塩山市史』文化財編)。
『軍鑑』巻19には、安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)討伐を命じられた時に、後冷泉天皇から拝領したもので、天皇からの下賜であったことは、『軍鑑』末書下巻上でも明記されている。
このことから、御旗は、後冷泉天皇から源頼義が下賜され、その息子義光(新羅三郎)に相伝されたもので、これが義光の子孫甲斐源氏の家宝となったというのが、武田氏の認識であったことは間違いなかろう。
次に、楯無とは、現在、菅田天神社(かんだてんじんじゃ・甲州市塩山上於曽)が所蔵する鎧のことで、正式名を「小桜韋威鎧(こざくらかわおどしよろい)兜・大袖付」といい、国宝に指定されている。この由緒も、御旗と同じである。なお、楯無の名は、楯を必要としないほど、丈夫な鎧とされることに由来するとの説がある。問題は、源義光以後、この鎧がどのように相伝されたかである。
源氏には、宗家に代々伝えられた、源氏八領といわれる重宝(じゅうほう)の鎧が八領あったという。現在、源氏八領のうち、唯一現存するものが、武田氏の楯無の鎧といわれている。
戦国期にはまちがいなく、武田家には楯無と呼称される鎧があったことは確実である。菅田天神社所蔵の国宝「小桜韋威鎧 兜・大袖付」は、学術調査が実施され、鎌倉、南北朝、室町、戦国、江戸の各時代に、修復の手が加えられているが、兜鉢は平安時代後期の早い段階のものであり、大鎧として甲冑史、美術史上、重要な遺物であると評価されている。すなわち、この鎧が、伝承通り楯無であることと矛盾しない。
武田氏は、御旗・楯無の継承者こそが惣領であるとの認識を保持していた武家であった。中世の武家では、籏と鎧は、惣領家が代々相伝する一門の象徴として重視されていた。そして、家の重宝でありながら、当主が時として戦場において着用することもしばしばみられたことが指摘されている。このことは、御旗・楯無にも当てはまる。