天正3年5月21日(1575年6月29日)、長篠設楽原の戦いが行なわれ、武田勝頼軍が織田信長・徳川家康連合軍に敗れました。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊他、有力武将多数が討死したことで知られます。今回は名将と称された馬場信春を紹介してみましょう。
馬場信春は教来石信保の息子に生まれました。誕生は永正11年(1514)ともその翌年ともいわれます。教来石氏は甲斐の在地武士集団・武川衆の代表的存在でした。
信春ははじめ、民部景政、次いで信房と名乗りました。武田信玄の父・信虎時代から武田氏に仕え、信州の諏訪・佐久方面の戦いで武功を立てています。信玄による実父・信虎追放事件では、無血クーデター成功に陰ながら助力しました。
天文15年(1546)、騎馬50騎の侍大将(隊将)に登用されます。この時、景政から信房に改めたといい、また信玄の命で馬場氏の名跡を継ぎ、民部少輔に任じられました。その後も信濃攻めで活躍、永禄2年(1599)には120騎を擁する重臣に列せられます。永禄4年(1561)の第四次川中島合戦では、妻女山を攻める別働隊の指揮を任されたといわれています。
永禄7年(1564)、豪勇をもって知られた原美濃守虎胤が病没すると、信玄より「鬼美濃の武名にあやかれ」と美濃守を名乗ることを許され、さらに晴信の「信」の字を与えられました。これによって馬場民部少輔信房から、馬場美濃守信春と改めることになります。
永禄8年(1565)には信州牧島城の守将に任ぜられ、北信濃に睨みを利かせる一方、自らはほぼ信玄の側にいて、合戦では先陣を務めました。永禄11年(1568)の駿河攻めにも参加。この時、駿府の今川館が炎上すると、今川氏の財宝が焼失することを惜しんだ信玄が、宝物を運び出すことを命じますが、それに真っ向から反対したのが信春でした。
「合戦の中で敵の宝物を奪い去るなど、言語道断。貪欲な武将であることよと、世の物笑いとなるだけだ」
と、自分の判断でいったん運び出した宝物をすべて火の中に投じてしまいます。これに対し信玄は「美濃の申し条、理にかなっている」と、信頼を深めています。
永禄12年(1569)の三増峠の戦いでは、北条軍を相手に奮戦し、元亀3年(1572)の西上作戦では、一隊を率いて遠江の只来城を攻略、三方ヶ原の戦いでは敗走する徳川家康勢を浜松城近くまで追撃しました。一説に信春に戦場での駆け引きや、兵法を伝授したのは、「鬼虎」の異名を持ち、海津城の副将を務めて、永禄4年に病没した小畠山城守虎盛であったともいわれます。
また信春は諏訪原城、江尻城、田中城などの城を縄張したといわれ、その築城術は山本勘助から学んだともいわれます。真偽のほどはともかく、信春が野戦にも築城にも長けた武将であったことを窺わせるものでしょう。
元亀4年(1573)に信玄が没すると、山県昌景とともに重臣筆頭として武田勝頼を補佐しますが、勝頼とは親密ではなかったようです。
天正3年の長篠の合戦では、設楽原の馬防柵を見て、騎馬隊による正面攻撃の不利を悟り、兵を退くことを勝頼に進言しますが容れられず、改めて、長篠城攻めに力を注いで潮時を見て軍を退き、追ってくる敵を信濃に誘い込んで殲滅する策を説きますが、これも斥けられたといわれます。もっともこの話自体の信憑性は疑われているようです。
ともかく、織田・徳川連合軍の前に大打撃を受け、味方が崩れると、信春は自ら殿軍をかって出て、武田勝頼が戦場から脱出する時間を稼ぎました。その戦いぶりは凄まじく、織田方の記録にも「その働き、比類なし」と信春の奮戦を称えています。そして乱戦の中で信春は討死しました。享年61。
一国の太守にもなれる器量人と謳われた信春、武田にとっては極めて惜しまれる人材の損失であったでしょう。
更新:12月04日 00:05