2018年03月13日 公開
2023年07月03日 更新
慶長20年3月14日(1615年4月11日)、奥平信昌が没しました。長篠の合戦の折、長篠城の城主として、武田軍の猛攻の前に城を死守した武将として知られます。
奥平氏の発祥は上野国(群馬県吉井町下奥平)であるとされます。8代貞俊の時に三河国作手に移って、11代貞勝の代までは駿河の今川氏の傘下にありました。作手・亀山城の奥平氏、田峯城の菅沼氏、長篠城の菅沼氏という奥三河に勢力を持つ国人たちは、山家三方衆と呼ばれます。
永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で今川義元が討たれると、12代・奥平貞能は徳川家康の傘下へと鞍替えしました。奥平信昌はこの貞能の長男で、13代を継承します。信昌は弘治元年(1555)の生まれで、幼名、九八郎。後に貞昌と名乗りました。桶狭間の合戦の折は、6歳の子供です。父の貞能は、家康に従って元亀元年(1570)の姉川の合戦にも参加しました。
翌元亀2年(1571)、武田信玄の三河侵攻が本格化し、武田の部将・秋山信友が奥平氏に、降伏して傘下に入ることを求めます。徳川か、武田家か、奥平氏は選択を迫られ、当主の貞能は徳川につこうとしますが、先代の貞勝が武田に従うよう命じました。やむなく武田傘下に入った奥平貞能は、武田軍の先鋒として三河や遠江を転戦し、元亀3年(1572)12月の三方ケ原合戦にも武田軍として参加、徳川家康を敗走させることになります。
しかし翌元亀4年(1573)、武田軍は野田城を落としながら上洛戦を止め、甲斐に引き返しました。この動きに不審を抱いた貞能は、信玄の死を確信するようになります。そんな貞能に徳川家康が密かに接近し、娘の亀姫と信昌(当時は貞昌、19歳)の婚約、領地加増の約束などで、徳川傘下に戻ることを誘いました。家康の誘いに貞能は、武田信玄はほぼ間違いなく他界したこと、奥平父子は徳川に帰参したい意思であることを伝えます。
直後、徳川勢に包囲された長篠城に対し、武田は救援を向かわせ、その中に貞能もいました。ところが城将の菅沼正貞は、救援軍の到着前に城を明け渡してしまい、菅沼は当然、武田から徳川への内通を疑われますが、その疑いは貞能にも飛び火します。ここに至り貞能は、作手の亀山城を一族郎党とともに退去し、徳川のもとに走りました。このため、武田に人質に出していた貞能の次男らは殺害されます。苦渋の決断でした。
天正元年(1573)、貞能は息子・信昌に家督を譲って隠居、信昌は長篠城を預かることになります。この奥平の離反に激怒したのが、武田勝頼でした。 天正3年(1575)、武田勝頼は1万5000を率いて長篠城を囲み、信昌は籠城戦を挑みました。もちろん援軍がなければ勝算はなく、信昌は家臣の鳥居強右衛門を密かに城から脱出させ、徳川への援軍要請の使いとします。
武田の包囲に城の食糧は枯渇し、堀のたにしをとって飢えを凌いだという話も伝わります。 そして、徳川の援軍に先行して長篠城近くに戻った強右衛門は武田方に捕らわれ、援軍は来ないと城に伝えることを強要されますが、強右衛門は命を捨てて援軍が来ることを城方に叫びました。強右衛門は磔に処されます。信昌は強右衛門の死に、籠城貫徹を誓いました。
やがて織田・徳川の大軍が設楽原に到着、酒井忠次率いる別働隊が密かに鳶ノ巣砦を落とし、退路を断たれた武田軍は織田・徳川軍との決戦を余儀なくされます。さらに酒井は城を囲む武田の包囲を突破して、城を救いました。この酒井の軍勢の中に、信昌の父・貞能がいたといいます。
長篠の合戦が織田・徳川連合軍の大勝に終わると、信昌の籠城を織田信長が大いに称え、「信」の徧諱を与えられました。信昌と名乗るのはこの時からです。家康も娘婿の信昌とその家臣を後々まで重んじました。
天正18年(1590)、信昌は関東に移封となった家康に従って、上野国甘楽郡に3万石で入封。奥平氏発祥の地・上野国に戻ったことになります。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦後で混乱する京都の治安維持を任され、信昌は初代・京都所司代に就任、翌年まで務めました。
慶長6年(1601)、信昌は上野国小幡3万石から、美濃加納10万石に加増転封されます。翌年、信昌は加納で隠居し、家督を3男の忠政に譲りました。大坂の陣只中の慶長20年(1615)3月、信昌は没しました。享年61。
信昌は正室・亀姫との間に4男1女をもうけており、早世した一人を除いて、いずれも「徳川家御連枝」と認められるなど厚遇され、末子の忠明は松平姓を子孫に至るまで称することになります。 また、その後、奥平家は下野宇都宮10万石を経て、豊前中津10万石に移封。幕末に至ります。
更新:11月23日 00:05