2018年03月09日 公開
2019年02月27日 更新
寛永14年3月10日(1637年4月5日)、本多正純が没しました。父・本多正信とともに、徳川家康の謀臣であった人物です。
本多正純の父・正信は、家康の家臣でありながら三河一向一揆で一揆方についてそのまま出奔、諸国をめぐったといわれます。その間、息子の正純は家康臣下のもとで保護され、父・正信が徳川家に帰参が叶うと、正純も家康の側近くに仕えるようになります。
正純は関ケ原の合戦にも出陣し、敵将・石田三成の身柄を預かりました。偶然ですが、その後の正純はどこか三成と似ています。征夷大将軍、さらに大御所となった家康が最も重用する能臣であった正純は、やがて下野国小山藩3万3000石の大名に取り立てられ、二代将軍秀忠の補佐役・大久保忠隣の政敵となりました。そして慶長19年(1614)には、大久保長安事件で忠隣を失脚させています。
大坂の陣後、家康と父・正信が他界すると、正純は秀忠の側近となりますが、父・家康の側近だった正純を、秀忠は快く思っていませんでした。元和5年(1619)、正純はいきなり宇都宮藩15万5000石へと大加増されます。周囲の反感を怖れた正純は固辞したといいますが、この加増あたりから正純の運命の歯車は狂い始めていたのかもしれません。
元和8年(1622)、出羽山形の最上氏改易にあたり、山形城の受け取り役を務めた正純のもとに、将軍秀忠暗殺を謀った疑いで糾問使が送られました。その内容は宇都宮城を無断で修築、秘密裏に鉄砲を製造し、さらに宇都宮城に釣天井を仕掛け、日光参拝の際に立ち寄る秀忠を暗殺しようとしたというもの。実はこの情報を幕府にもたらしたのは、正純の宇都宮城移転に伴い、古河に移封させられた奥平忠昌の祖母・加納御前(家康の娘、秀忠の姉、亀姫)であったといわれます。加納御前の娘は、かつて正純に失脚させられた大久保忠隣の息子に嫁いでおり、御前はかねてより正純に恨みを抱いていました。
とはいえ、正純にすれば将軍暗殺は濡れ衣です。糾問使は宇都宮の所領を召し上げるが、先代からの忠勤に免じて出羽に5万5000石を与えると言いますが、身に覚えのない処罰に、正純は毅然と拒みます。するとこれに怒った秀忠は、正純を久保田藩佐竹義宣に預け、流罪としました。いわゆる「宇都宮釣天井事件」です。
寛永13年(1637)、正純は流罪の地・秋田横手に幽閉されたまま、ひっそりと息を引き取りました。 権勢欲にかられた人物として描かれがちな正純ですが、天下の政道を正しく舵取りしたいという意識は強かったようで、その分、敵も作りやすく、豊臣家の奸臣に仕立てられた石田三成と似ているような気もします。
更新:11月22日 00:05