2017年06月03日 公開
2019年05月29日 更新
正保4年6月3日(1647年7月5日)、本多政重が没しました。徳川家康の謀臣・本多正信の息子で、名だたる大名家を転々とした、謎めいた武将として知られます。
天正8年(1580)、政重は本多正信の次男に生まれました。兄は本多正純。本多正信・正純父子といえば謀臣・能吏のイメージが強いですが、政重はいささか違います。
天正19年(1591)、徳川家家臣の倉橋長右衛門の養子となりますが、慶長2年(1597)、18歳の時、徳川秀忠の乳母の息子・岡部荘八を斬って出奔。半年後に大谷吉継、次いで関ケ原前年の慶長4年(1599)に宇喜多秀家に仕えました。ほどなく起きた関ケ原合戦では宇喜多陣営にあり、おそらくは正面の福島隊と激しく戦ったことと思われます。
しかし西軍は敗れ、宇喜多隊も散り散りとなる中で、政重は近江堅田に隠棲しました。本多正信の息子ということで罪に問われることを免れると、前田利長や小早川秀秋の誘いを断って政重は一旦高野山へ赴き、その後、関ケ原で激突した福島正則に仕えます。
慶長7年(1602)には安芸広島を立ち退き、加賀金沢の前田利長に仕えて3万石を食み、本多山城守と称しました。この時、政重23歳。しかし翌慶長8年、旧主・宇喜多秀家の身柄が薩摩から家康のもとに渡ったことを知ると、秀家に対する義理から前田家を致仕し、牢人となります。
そんな政重に注目したのが、上杉家の重臣・直江兼続でした。慶長9年(1604)、直江は請うて政重を娘の松の婿とし、直江の家督を継がせて直江大和守勝吉と名乗らせます。しかし翌年、妻の松は死去。直江兼続は実弟・大国実頼の娘・阿虎を養女とし、改めて政重に嫁がせました。しかし大国実頼はこれに反対し、出奔します。さらに同じ頃、直江兼続の実子・景明が膳所藩主・戸田氏鉄の娘と結婚しますが、その仲介をしたのは、政重の父親・本多正信でした。こうして見ると、直江兼続の政重に対する下にも置かぬ扱いは、明らかに背後にある徳川家重臣・本多正信と幕府の意向を意識していたことがわかります。政重を重んじることで、主家と幕府の仲が円滑になることを期待したわけで、だからこそ兼続の弟はそんな兄のやり方をよしとせず、出奔したのでしょう。
ということは、政重の多くの大名家を転々とした足跡は、単なる政重の気まぐれや個人的資質を買われたものだけでなく、その背後に徳川幕府が控えており、あるいはその密命を受けていた可能性も出てくるのです。しかしそんな政重も、義弟にあたる景明が成長するのを見計らい、慶長16年(1611)、32歳で上杉家を離れました。そして翌慶長17年、藤堂高虎の仲介で加賀前田家に帰参、3万石の家老として、藩主・前田利常に仕えます。この時、妻・阿虎をはじめ、直江家時代の旧臣が多く政重に従い、加賀で政重に仕えたところを見ると、政重の人望、人間的魅力も相当なものであったことが窺えます。
慶長18年(1613)には、幕府が前田家に越中を返上するよう求めたのに対し、政重が奔走したことで越中は前田領として認められることになり、その功で2万石加増されました。その後、3代藩主・光高、4代藩主・綱紀も家老として支え、父・正信が死去し、兄・正純が幕府内で失脚しても、政重の立場はいささかも揺るぎませんでした。
なお寛永10年(1633)、3代将軍家光より、息子の一人を旗本として差し出すよう命じられると、政重は長男・政朝(実際は3男だが、長男は早世、次男は他家の養子となっていた)を周囲の反対を退けて江戸に送ります。その理由として政重は「せがれは少々抜けておるゆえ百万石の家老には向かぬ。しかし将軍家と申せば八百万石。せがれ一人抜けておっても、差し支えあるまい」と語ったとか。
正保4年、政重没。享年68。諸家を転々とした政重の生涯には、幕府の意向が感じられる一方、父・正信は一度、家康のもとを出奔し、諸国を放浪した人物でもあります。その血をうけた政重の放浪癖を、正信がうまく利用した可能性もあるのかもしれません。
更新:11月24日 00:05