2015年10月04日 公開
2023年03月09日 更新
関ケ原合戦に臨んだ東軍武将の多くは、「石田三成憎し」の感情から徳川家康に味方したといわれます。そもそも彼らが三成を憎んだのは、朝鮮出兵において軍奉行を務めた三成から、不当な仕打ちを受けたことによる恨みであるというのです。しかし理由は、本当にそれだけだったのでしょうか?
実は秀吉の家臣団が拡大していくに伴って、いくつかのグループが生まれたことを小和田哲男先生は本特集で指摘されています。
秀吉初期の勢力拡大期に重用されたのが、勇猛果敢な戦働きのできる者たちで、尾張出身の福島正則や加藤清正らでした。後に「武断派」と呼ばれる男たちです。
一方、秀吉が天正元年(1573)に北近江3郡12万石を与えられた際、石田三成や増田長盛ら近江出身者が取り立てられました。彼らは戦働きよりも内政面に力を発揮する官僚としての能力が高く、後に「吏僚派」を形成していきます。
さらに中国攻めを行なう姫路城主時代には、黒田官兵衛をはじめとする播磨系などが加わっていきました。
実は関ケ原合戦の陣営を眺めると、出身母体と出仕時期を同じくする者たちが、同じ陣営に属していることが多いのです。これも関ケ原合戦の東西を分ける大きな要素であったといえそうです。
もう一つは、時代の大きな変化があったことを童門冬二先生が特集内で指摘されています。戦国の世が終息し、初めて統一政権としての豊臣政権が生れて天下泰平となりました。その政権を支えるのは、戦働きで活躍した荒武者よりも、実務能力に長けた官僚たちです。
この変化が、武断派武将には納得できません。「秀吉様を天下人にしたのは、俺たちの槍働きがあればこそ。ろくに戦場で働かず、後方にばかりいた三成らが、何を我らに指図するのか」という思いが底辺にあり、それが朝鮮出兵の際に噴出することになりました。
一方、朝鮮出兵について三成ら官僚は、無謀な対外出兵がせっかくまとまった統一政権を崩しかねないという危惧を抱いていました。そこで密かに秀吉の意に背いてでも、早期講和を図ろうとします。
そのためには、秀吉の命令に忠実に従って戦線を拡大する武断派武将は邪魔でした。そこから時に、秀吉への恣意的な報告となります。一方、最前線の武将たちにすれば、自分たちが苦労の末に挙げた武功を、三成の讒言によってことごとく低く評価されて秀吉に伝わっていると疑い、三成への憤懣と憎しみを募らせていくことになるのです。
いわば戦国以来の戦場での武功を第一とする諸将の価値観と、豊臣政権という統一政権を安定的に運営することを第一とする三成らの価値観が、正面からぶつかるかたちでした。
この豊臣政権内の対立を一歩ひいて眺めていたのが、朝鮮半島に派兵せず、兵力を温存できた徳川家康です。
家康は時代の変化には気がついており、これからの統一政権の元では、三成らのような官僚が手腕を発揮すべきであることは十分承知していたでしょう。ところが家康は、そんなそぶりは一切表に出しません。もしそれを肯定すれば、家康は生涯、豊臣政権の一つの歯車で終わりかねないからです。
そこでむしろ歴戦の武将として、不満を抱く武断派諸将の良き理解者として振る舞うのです。武断派諸将にすれば、これほど頼もしい旗頭はいませんでした。家康は巧みに両者の対立を煽っていきます。
家康の存在は、晩年の秀吉が最も危惧するところでもありました。そこで秀吉は五大老・五奉行制を定め、家康を大老の一人とし、豊臣政権は有力大名の合議制にして家康の野望を封じ込めるのです。しかし、それが効力を発揮したのも秀吉の存命中まででした。
慶長3年(1598)に秀吉が没して朝鮮の役も終わり、翌年に大老の一人で重鎮であった前田利家が没すると、家康が動きます。七将に命を狙われる騒ぎとなった石田三成を佐和山に引退させ、浅野長政を蟄居に。二人の奉行を排除すると、次は前田家に難癖をつけ、宇喜多家中の騒動に介入するなど、同僚の大老たちを次々と蹴落としていきます。
さらに慶長5年(1600)3月、大老の上杉景勝に謀叛の疑いをかけ、会津討伐を号令。家康の狙い通り、もはや五大老・五奉行制は骨抜きとなっていました。
豊臣正規軍を率い、その主将として家康は会津に向かいます。そして上方を空けた隙に、石田三成らが挙兵することを家康は予測していました。ところが、三成は挙兵するにあたり、奉行たちを動かして諸大名に家康弾劾文を発するのです。「内府ちかひの条々」でした。
豊臣政権が家康弾劾文を発したということは、家康の軍勢は豊臣正規軍の称号をはく奪されることを意味し、家康は豊臣家に不忠を働いていると名指しされたわけです。これではともに関東まで下ってきた豊臣恩顧の諸将たちが、家康を見限るかもしれません。さすがの家康も、これには狼狽しました。
一説に下野小山で開かれたという評定。家康にすれば正念場でした。そしてこの時、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎らは、それぞれ何に基づいて決断を下したのか。また、当主の毛利輝元が大坂城に入った毛利一族はどうであったのか…。
自分の家と運命を東西両軍いずれかに託さねばならない状況で、必ず勝てるという保証はない中、はたして男たちは何を重んじて東軍につく決断を下したのでしょうか。
更新:11月22日 00:05