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本多忠政、父親譲りの謀計

2017年08月10日 公開
2023年04月17日 更新

8月10日 This Day in History

今日は何の日 寛永8年8月10日

本多忠政が没

寛永8年8月10日(1631年9月6日)、本多忠政が没しました。本多平八郎忠勝の長男で、真田信之の正室・小松姫は姉にあたります。

天正3年(1575)、本多忠勝の長子に生まれた忠政は、天正18年(1590)の小田原攻めで初陣し、父親とともに武蔵国岩槻城攻めで武功を上げました。慶長5年(1600)の関ケ原合戦では、徳川秀忠の軍に属して中山道を進み、真田昌幸の籠る上田城攻めにも参加。義兄にあたる真田信幸(信之、昌幸の長男で東軍に参加)とともに国分寺に赴き、昌幸の説得も試みています。

慶長14年(1609)に父・忠勝が隠居したため、家督を相続して桑名藩の2代藩主となりました。ところで、慶長の末頃のこととして、こんな話が伝わっています。

幕府が京都所司代へ御用金を運ぶ折、東海道を進み、忠政の桑名城下に宿をとることになりました。道中奉行が藩に宿の斡旋を依頼すると、忠政は「一夜とはいえ御公儀の御用金を街中の宿に置いて、不測の事態があってはならぬ。今宵は御用金を城中の蔵に預け、ご一同も城内の屋敷に泊まられよ」と命じ、幕府の一行は忠政の行き届いた配慮に感激して、屋敷に泊まりました。

翌朝、一行が城中の蔵に御用金を受け取りに行くと、蔵の番人が頑として蔵を開けません。いわく「殿の命により、金子(きんす)はお渡しできかねる」。仰天した道中奉行が、直接忠政に面会して問いただすと、「当方、手元不如意のところ、こたびは多額の金子を蔵にお納め頂き、誠にかたじけない。このまま借り受けいたすとするが、それでは貴殿が務めを果たせまい。よって、代わりの金子をご公儀に依頼するゆえ、しばし当城に逗留されよ」という始末。もちろん道中奉行が桑名に留まるはずもなく、急ぎ京に上って京都所司代に事の顛末を報告し、所司代から江戸の将軍・秀忠に早馬で連絡が届きました。すると秀忠は、「これは本多の親譲りの謀計というものよ。道中奉行では天下に知られた武門・本多の謀計にかなうはずもあるまい。御用金はそのまま忠政に貸し与え、京へは代わりの金子を遣わすがよい」と、意外にも苦笑しただけで忠政を咎めることもなかったといいます。

後年の幕府であれば、所業不届きと決めつけて本多を改易にしたかもしれませんが、当時はまだ大御所家康や将軍秀忠と家臣の直接的なつながりが色濃い時代でした。

その後、忠政は大坂の陣に参加し、冬の陣後には大坂城の堀の埋め立てを差配しています。また夏の陣では誉田方面で薄田兼相や毛利勝永と激闘を演じました。その武功から、戦後の元和3年(1617)には姫路城主となって、15万石を領しています。忠政の嫡男・忠刻の正室には、豊臣秀頼の正室であった千姫が迎えられました。

寛永8年、忠政は姫路で没しました。享年57。

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