2017年06月18日 公開
2019年05月29日 更新
天正15年(1587)6月19日、九州平定を終えた秀吉は筑前箱崎において、突如、「伴天連(バテレン)追放令」を発しました。その内容は宣教師の退去と貿易の自由を宣するものです。
具体的には、「神国たる日本でキリスト教を布教することはふさわしくない、領民を集団で信徒にすることや神社仏閣の打ちこわしの禁止、宣教師の20日以内の国外退去」などで、これは南蛮貿易を妨げるものでなく、布教に関わらない外国人商人の渡来は規制しない、としました。また宣教師は退去させるものの、強制でない限りキリスト教への日本人の改宗は自由であり、大名でも秀吉の許可を得れば入信は認められました。ですからいきなりキリスト教が禁じられた、というわけではないのです。
秀吉がなぜバテレン追放令を発したかについては、いくつかの説がありますが、おそらく九州攻めで秀吉が実際に九州の様子を見聞したことと無関係ではないでしょう。すなわちキリシタンが領民だけでなく大名にまで広がっており、もし彼らが結束して蜂起したら、かつての一向一揆以上の難敵になりかねない危惧を抱いたこと。また宣教師と結ぶポルトガル商人が、日本人を奴隷として海外に売っていたことへの怒りもありました。
さらには、イエズス会準管区長のガスパル・コエリョが、秀吉に対して挑発的な態度を取ったことが直接の原因であったともいわれています。コエリョは大砲を積んだ大船を博多で秀吉に見せつけます。外洋船を建造する技術に習熟していない日本人にすれば、それは脅威以外の何物でもありません。そして秀吉の追放令に接したコエリョは、キリシタン大名に秀吉への敵対を求め、さらにフィリピンに援軍を請うのです。またコエリョはローマ宛ての書簡に「もしもフェリペ国王陛下の援助で、日本66ヶ国すべてが改宗するに至れば、国王は、日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、一層容易に中国征服を成就することができるであろう」と、日本人を明国征服の尖兵にするとほのめかしました。
こうしたコエリョの言動は、ヴァリニャーノやオルガンティノら他の宣教師から非難されますが、必ずしも当時、コエリョが特別であったといえないのが難しいところです。たとえば追放令から9年後、嵐で漂着したスペイン船が積み荷を日本側に没収されて抗議するサン・フェリペ号事件が起こりますが、この時、乗組員が語った「スペインの世界的覇業とは、他国にまず修道士を入れ、次に軍隊を入れて征服する。日本にも同じことをする」という話に、秀吉は激怒するのです。宣教師がもたらしたキリスト教の教義が、戦乱に明け暮れる当時の少なからぬ日本人に救いを与えたのは事実ですが、その布教の先に、別の目的が存在したことも事実なのでしょう。
さて、高山右近です。彼は父親の高山友照がキリシタンであったことから、12歳の時に洗礼を受け、以後、生涯をキリシタンとして貫きます。洗礼名はジュスト。 高山氏は三好氏、次いで摂津高槻城の和田惟政の配下となりますが、惟政の死後の内紛で、右近は高槻城内で斬り合い、首に重傷を負いました。
和田氏が崩壊すると、高山氏は荒木村重配下となります。 荒木村重が謀叛を起こした際、右近は、織田信長から「降伏しなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにする」と脅され、やむなく村重を裏切った経緯がありました。本能寺の変後、中国大返しの秀吉軍に加わってともに明智光秀を破ったことで、秀吉からは厚く信頼されます。天正13年(1585)には播磨明石6万石を与えられました。
また熱心なキリスト教信仰者で、右近によって蒲生氏郷、黒田官兵衛らが入信しました。そんなキリシタン大名の中心人物であったため、バテレン追放令の際、秀吉は右近にだけは棄教を求めるのです。右近が棄教すれば、他のキリシタン大名も従うだろうという読みでした。ところが秀吉の読みに相違し、右近は所領・財産すべてを棄てても信仰を守ることを選ぶのです。
右近はキリシタン大名の小西行長の庇護を受けた後、親しかった前田利家に招かれて、金沢で1万5000石の扶持を受けました。金沢城の修築の際、右近が一部縄張を行なったといわれます。また利家没後、嫡男・利長の相談役を務め、利長の隠居城である高岡城の縄張も行ないました。
慶長19年(1614)、徳川家康のキリシタン国外追放令を受けて、右近は加賀を去り、フィリピンのマニラに赴いて、翌年、没しました。享年64。 宣教師の思惑に関係なく、右近にとってのキリスト教は自分の生涯を賭けるに足るものであり、その信仰心はひたむきな純粋なものであったのだろうと想像します。
更新:11月21日 00:05