小牧・長久手の戦いの後、旧武田領内の動揺をおさめるのに手を焼いていた家康。真田昌幸の裏切りと、それを助ける上杉景勝の登場によって、家康は上田城を諦める羽目に。
そして家康にさらなる試練が訪れる。徳川一の功臣である石川数正が、豊臣秀吉の方へ寝返ったのである。それを機に、秀吉も徳川征伐を計画するのだが...。
※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の内容を、一部抜粋・編集したものです。
上田合戦(第一次)から3か月後、岡崎城代の石川伯耆守数正が出奔し、秀吉のもとに走った。
数正は西三河の旗頭、すなわち徳川正規軍の片翼をになう軍最高司令官だった。しかも数正は、徳川一の功臣。そんな彼が、主君の家康を見捨て秀吉のもとへ走ったのである。
家康の動揺は激しく、『三河物語』によると、最前線の信濃国小諸を守備していた重臣の大久保忠世にまで帰国を催促している。
前年に家康は形式的な和議を結んだとはいえ、秀吉の上洛要請に応じず、冷戦状態が続いていた。数正は、徳川のすべてを熟知していた。とくに死活問題なのが、戦のさいの軍法(軍事機密)である。
それを憂えた家康は、武田信玄の旧臣を召し、ただちに軍法を武田流に一新したといわれる。
それにしてもなぜ、数正ほどの重臣が寝返ったのか。研究者の多くは、外交方針をめぐって家中で孤立したからではないかとする。
一つ言えることは、徳川家中で羽柴秀吉に接する機会が最も多かったのが数正であったことだ。数正は徳川の外交を担うことが多く、賤ヶ岳合戦の勝利を祝う家康の代理として秀吉を訪ねたのも、小牧・長久手合戦後の講和交渉を担当したのも数正だった。
だから秀吉の偉大さを実感し、家康に豊臣への臣従を繰り返し説いたと『改正三河後風土記』は記す。それもあって数正は「豊臣に通じているのではないか」と、家中から疑いの目を向けられた。数正の子が秀吉の人質になっていたことも、内通を疑われる要因の一つだったかもしれない。
あくまで巷説だが、こうした状況を知った秀吉は、わざと公共の場で数正の人器をほめあげ、「十万石を出しても惜しくない武将だ」と声高に言ったので、徳川家中で肩身が狭くなり、数正は出奔したのだろうといわれる。
『改正三河後風土記』は信用に足らぬ後世の編纂資料とはいえ、多くの研究者は数正出奔の理由を同書が説くように、家中における孤立だったと考えている。とくに徳川・羽柴間の外交を担ってきたことで、そうした状況に陥ったとする。
研究者の藤井讓治氏、新行紀一氏、柴裕之氏らは、数正出奔の決定打は同年10月28日の浜松城会議にあったと説く。
強大化した羽柴秀吉は同年7月に関白に就任し、朝廷の意向を背景に豊臣政権を樹立した。同年8月、秀吉は佐々成政を倒すべく10万の大軍で富山へ侵攻するが、それにあたって佐々に味方せぬようにと、織田信雄を通じて家康に人質の提出を求めてきた。もはや秀吉は、家康が立ち向かって勝てる相手ではなかった。
藤井氏は、「家康は10月28日に家臣を浜松に集め、秀吉へ家老中から人質を出すか否かを協議させた。国衆は人質を出すのは良くないと決し」(『人物叢書 徳川家康』吉川弘文館)たが、「おそらく石川数正は人質を秀吉に出すべきとの意見を持っていたのであろう」(前掲書)とし、それが数正出奔の理由だったと推論する。
同じく新行氏も「秀吉との頻繁な接触の結果、数正は対秀吉和平論者となり、強硬対決論者の多い家臣団中で孤立をふかめ、最終的には10月28日の浜松城会議で敗北し、強硬派による身辺の危険を回避するためにも、また自説の正しさを主張するためにも、和平派の小笠原貞慶、刈谷城主水野忠重らとも連携しながら秀吉の許に奔ったのではなかろうか」(「豊臣秀吉との抗争と和睦」柴裕之編著『シリーズ・織豊大名の研究10 徳川家康』戎光祥出版 所収)と述べている。
いずれにせよ、数正出奔の噂はすぐに伝わると観念したのだろう。家康は数正が消えた2日後(11月15日)、同盟者で娘婿である北条氏直に「石川伯耆守(数正) 尾州ヘ退散候、信州小笠原(貞慶)人質召連候、上方申合子細ニ付如此之様子と存候間、不可有御油断候」(『愛知県史 資料編12 織豊2』)と、数正が秀吉と示し合わせて小笠原貞慶の子・幸松丸を連れ、尾張へ退散した事実を告げている。
なお、小笠原貞慶は、我が子を数正に連れ去られたので、それからまもなく徳川から羽柴方に寝返ってしまった。ただ、むしろ貞慶が数正の寝返りを工作したという説もある。
家康にとっての最大の危機は、秀吉にとっての千載一遇のチャンスでもあった。頑として自分に従わない家康をこれを機に潰そうと考え、来春早々、兵力を大動員して徳川征伐を計画したのである。
たとえば数正が出奔した6日後(11月19日)、早くも秀吉は、上田合戦で徳川軍を撃破した真田昌幸に書状を送っている。
そこには、13日に石川数正が家族を連れて家康のもとを去ったことが書かれてあり、それによって「家康表裏重々有之」ということが明らかになった。
しかも、それは、徳川「家中者とも依存知之」いるので、「此上者人数を出、家康儀成敗可申付ニ相極候」と軍勢を催して家康を討つことを宣言、その時期については「出馬之儀ハ当年無余日候間、正月十五日以前ニ動座有之」と来年の正月15日以前に軍を動かすつもりだと述べている。
さらに昌幸に対し、信濃で家康と敵対する小笠原貞慶や木曽義昌と相談・協力してほしいと語り、来年正月になったら信濃国へも兵を入れ、「彼悪逆人成敗儀程有間敷候」と、家康のことを悪逆人と罵倒し、「成敗」してくれると意気込んでいる。
11月20日にも秀吉は、配下の美濃国竹ヶ鼻城主の一柳直末に対し、来春の徳川征伐のため、敵情を調べよと命じている。
こうして秀吉が動き出すと、危機感を強めた家康は、支配地に組み込んだばかりの甲斐や信濃の国衆から人質をとりはじめた。同時に北条父子との同盟を強固なものとし、岡崎城をはじめ諸城の改修に力を注いだ。
もはや、豊臣政権との対決は避けられない状況になったのである。
ところが、である。秀吉はにわかに徳川征伐を中止した。そう、家康は命拾いしたのだ。なぜ、あれほど意気込んでいた遠征を取りやめたのだろうか。
おそらく、その最大の要因は、天正大地震だったと思われる。
秀吉が真田昌幸に徳川征伐を宣言したわずか10日後の天正13年(1585)11月29日、現在の中部・近畿地方にまたがる巨大地震が発生したのである。
このとき徳川方の岡崎城も破損したようだが、もっとも大きな被害を受けたのは、隣接する織田信雄の領地だった。徳川征伐が実施されたら、信雄が先鋒になるのは確実だった。
そんな信雄の居城・長島城は倒壊して居住できなくなり、以後、清須城に移っている。また、領内の寺社の多くが倒壊、あちこちで液状化現象が起こり、田畑に相当な被害が出た。
このほか、主な被害を列記すると、美濃の大垣城が全壊、近江国の長浜城も全壊し、城主山内一豊の娘が亡くなっている。さらに、飛驒国の帰雲城は大規模な山崩れによって城下ごと飲み込まれ、城主の内ケ島氏をはじめ領民すべてが犠牲になってしまった。
このほか、各地でも甚大な被害が発生、こうした状況を無視して徳川征伐を強行することは、さすがの秀吉も難しくなってしまったのであろう。
とくに徳川征伐を避けたかった織田信雄は積極的に両者の間を取り持ち、翌天正14年(1586)正月、自ら岡崎城に出向いて家康と会見をおこない、正式に徳川と羽柴の和議を成立させたのである。まあ、じっさいは戦争回避のための停戦協定といって良いかもしれない。
というのは、それからも家康は秀吉に臣従せず、同年3月には北条氏政とたびたび会い、結束を固めているからである。
更新:11月21日 00:05