ところが翌4月、にわかに状況が変化する。
なんと家康は、正妻として秀吉の妹・朝日姫を迎え入れることにしたのである。そして翌月、朝日姫は家康のもとに輿入れした。さらに同年秋、朝日姫の病気見舞いとして、秀吉が生母の大政所を遣わしてきた。さすがにここにおいて家康も、秀吉への臣従を決意、同年10月、大坂城で秀吉に謁見したのである。
なお、研究者の笠谷和比古氏は、「家康の上洛決断が、世に言われている大政所の人質提出によってなされているのではなく、『三位中将』という朝廷官位の権威によって実現された」(『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』ミネルヴァ書房)と断じる。
笠谷氏は「『三位中将』はまさに毒入りの美酒なのであった」「しかしながら家康は、その官位の放つ魅惑から逃れることはできなかった」と述べ、朝廷(秀吉)から高い位階を与えられたから家康は上洛を決意したと論じている。なかなか興味深い説だといえよう。
いずれにせよ、信長の死によって織田系の大名という身分から自由になった家康だったが、再び秀吉に枷をはめられ、豊臣系大名として生きていくことになるのであった。
更新:11月22日 00:05