2021年02月13日 公開
2023年01月05日 更新
いよいよ2月14日から放送が始まる大河ドラマ「青天を衝け」。幕末維新で活躍した人物には武士が多いが、そんな中にあって、農家出身の主人公・渋沢栄一の経歴は異色といえる。
何が、栄一を「日本資本主義の父」へと押し上げたのか。どんな人にも、必ず人生の転機がある。本稿では、91年間の栄一の人生に強い影響を与えた、前半生における5つの転機を紹介したい。
※本稿は、『歴史街道』2021年3月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
血洗島村(埼玉県深谷市)の農家・渋沢家は、栄一の父・市郎右衛門が商才を発揮して富豪となったので、領主の安部氏(岡部藩)からたびたび御用 金を要求されていた。
あるとき市郎右衛門は、代官の若森某に急に呼び出されたが都合がつかず、代理として17歳の栄一を陣屋へ差し向けた。すると代官は、いきなり栄一に向かって五百両の御用金を命じたのだ。現代の価値でいえば、二、三千万円はくだらないだろう。
躊躇した栄一は、「今日は、父から御用向きを伺ってこいと言われて参上しただけ。五百両は大金ゆえ、父と相談のうえ返答いたします」と願い出た。
ところが代官は、「それは認めない。お前にとっては大した額ではないはず。この場で承諾せよ」と高飛車に脅してきたのだ。それでも栄一が首を縦にふらないと、「貴様はつまらぬ男だ」とさんざん罵倒したのである。結局、藩命には逆らえず、翌日、栄一は大金を持参して陣屋を再訪せざるを得なかった。
このとき栄一は、「百姓をして居ると、彼らのような、いわばまず虫螻蛄同様の、智恵分別もないものに軽蔑せられねばならぬ、さてさて残念千万なことである」(長幸男校注『雨夜譚─渋沢栄一自伝─』岩波文庫)と、身分の不条理を痛切に感じ、「同じく人間と生まれ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目である」(渋沢栄一著『論語と算盤』角川ソフィア文庫)という志を抱くようになった。
この決意が、いわば栄一の第一の転機といってよいだろう。
栄一の青少年期は、ちょうど歴史上の激動期にあたる。
幕府は開国を余儀なくされ、列強諸国との貿易が始まると輸出品を中心に諸物価が高騰、人々の生活は苦しくなった。
このため攘夷思想が広がり、各地で外国人襲撃事件が頻発。また、この状態を招いた幕府への不満から、大老の井伊直弼が殺害されたりして、幕府の威信は失墜した。
一方、京都の朝廷は尊攘派志士に牛耳られ、上 洛した十四代将軍徳川家茂も朝廷の要求に屈して諸藩に攘夷決行を命じざるを得ない有様になっていた。
当然、鋭敏な栄一がこの世相の影響を受けぬはずがない。
江戸に遊学して志士と交わる中で攘夷思想に染まり、文久3年(1863)、親族の尾高惇忠と渋沢喜作とはかって、横浜にいる外国人を皆殺しにしようと計画。
武器や甲冑を買いあさり、70人近い仲間を集めた。この人数で高崎城を乗っ取ってさらに武器を奪い、そのまま横浜の居留地へなだれ込もうというのだ。
ただ実行直前、京都の情勢が激変したという風聞が、栄一の耳に届いたらしい。
そこで京都にいる従兄の尾高長七郎に手紙で問い合わせつつ計画への協力を求めたところ、直接、長七郎が栄一らのもとに駆け込んできて、尊攘派の挙兵失敗(天誅 組の変)と、朝廷から尊攘派が駆逐された事実(八月十八日の政変)を語り、襲撃計画の中止を強く求めたのである。
栄一は激しく反発したが、長七郎は「素人集団が蜂起してもただちに征伐され、空しく刑場の露と消えるだけだ」と力説した。ここにおいて栄一も長七郎に理があると悟り、ついに攘夷決行を断念した。
もし暴挙を断行していたら、首謀者である栄一の極刑は免れず、後に大実業家になることもなかった。そういった意味では、攘夷の挫折が結果的に第二の転機となり、栄一の未来を開いたわけだ。
更新:11月21日 00:05