2019年12月24日 公開
2022年12月07日 更新
20年ぶりに1万円札、5千円札、千円札が新しくなることが決まった。では新たに 「お札の顔」に選ばれた3人は何をした人物なのか。その人生を紹介する。
西洋文明の激しい洗礼を受けて、大変革を迫られた明治という近代化の黎明期、日本を平和的にリードした3人が新紙幣の顔となった。
1万円札の渋沢栄一は「近代日本資本主義の父」、5千円札の津田梅子は「女子高等教育の先駆者」、千円札の北里柴三郎は「日本近代医学の父」と称えられる。
徳川幕府が瓦解し、御一新の世の中となった時、渋沢栄一はパリにいた。
関東平野の中部・血洗島村(埼玉県深谷市)の小農家に生まれたが、父・晩香が副業とした藍玉(藍の葉を発酵させ、乾かし固めた染料)の製造販売で儲けて村有数の資産家になった。栄一は父を手伝って売掛の商売を体得し、十代にして経営の才を身につけた。
父が名字帯刀を許されると、武士に憧れ武術に打ち込む。当初、従兄の影響で尊王攘夷にかぶれ、高崎城乗っ取り・横浜居留地焼き討ちを標榜したが、計画倒れとなる。
変わり身早く、知遇を得て一橋慶喜に仕えた。この変節が渋沢の未来を拓く。
将軍徳川慶喜の要請で、その弟昭武が将軍名代としてパリ万博に列席する随員に選ばれ、会計を担当した。
時に渋沢は28歳、丁髷をつけ、二本差しをたばさむ武士として渡欧したが、幕府消滅を聞くと、丁髷をバッサリ落とし、シルクハットにステッキと、断髪洋服姿に変身した。
渡欧して日本と余りに違う西洋の価値観に衝撃を受けたからだ。攘夷など時代錯誤、鉄を用いた製造力を身につけ、近代化を急がねば日本は欧米の植民地になってしまうと悟った。
国力増強の源は経済力。国王自らが自国の製品を売り込む姿に感銘し、資金を動かす銀行の存在、商工業者の地位の高さに驚き、体内に眠っていた商売人としての遺伝子が騒いだ。その西洋での感動をもって渋沢は帰国した。
新政府に招かれて大蔵省官吏に登用され、紙幣・金融・財政制度の制定と改革に参与したが、渋沢は民間における経済の発展を志し、退官すると第一国立銀行(現みずほ銀行)を明治6年(1873)に設立して頭取となり、以後実業界に身を置く。
銀行は預金を集め、これを企業に貸し付けて成り立つ。だがまだ企業は育っていなかった。そこで貸付先となる企業を自らの手で設立していった。
渋沢が設立した会社は500以上にのぼる。東京瓦斯、日本郵船、帝国ホテル、麒麟麦酒、東洋紡績など、今日まで連綿と続く多種多様の企業が名を連ねる。
だが渋沢はそれらの企業をわが物にせず、三菱や三井のような財閥を形成しなかった。
彼は「仮に一個人が大富豪になっても、社会の多くの人々がこのために貧困に陥るような事業であってはならない」といい、自著『論語と算盤』で道徳経済合一主義を説く。
「論語は道徳、算盤は金儲けで、対極をなす。だが両者を理解することで、本当の富が育つ。つまり富を作る人は世間から尊敬されねばならず、富の力で人を抑え込んだり、私利私欲に走ってはならぬ。富をなす根源は仁義道徳である」と主張した。
現在、地方の衰退が問題化しているが、渋沢は都会の発展により地方が衰微してはならず、地方こそ国富の源泉であると説いた。その慧眼には驚かされる。
日本鉄道などを起業し、東北本線、日光線、筑豊本線、また北海道の鉄道をも建設、私鉄事業者として全国の鉄道網の基礎を築いたのも、輸送の利便性だけでなく、都会と地方の格差をなくすためでもあった。
渋沢は社会貢献を信条とし、困窮者・孤児・障害者などのための養育院、日本赤十字社、癩予防協会など約六百の非営利事業にかかわった。
また商売には学問が必要として東京高等商業学校(現一橋大学)や大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力し、良妻賢母な女性を育てるために日本女子大学設立の発起人になり、校長にもなった。
渋沢は昭和6年(1931)、91歳で他界した。
プロレタリア運動が盛んだった大正期、短歌雑誌『アララギ』には渋沢のことを詠んだ歌が掲載された。
「資本主義を 罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ」
彼の生きざまを端的に物語っているといえよう。
更新:12月12日 00:05