2019年12月24日 公開
2022年12月07日 更新
千円紙幣の顔は野口英世から北里柴三郎へ。同じ細菌学者で、野口は北里の愛弟子。新札は恩師へとバトンタッチされることになる。
熊本県の庄屋の長男として生まれた北里は、武士か軍人、または政治家になりたいと思った。
だが両親は医者になることを望んだ。これに「何のために武を練り、文を学んできたか。長袖(医者のこと)の徒となる意志は微塵もなし」と抵抗したが、結局、18歳で古城医学所(現熊本大学医学部)に入り、そこで顕微鏡の中に広がるミクロの世界の虜となった。
東京医学校(現東京大学医学部)を経て、33歳の明治19年(1886)にドイツに留学、ローベルト・コッホに師事して破傷風菌の純粋培養に成功し、その毒素を明らかにし、血清療法を確立した。
惜しくも逃したが、この功績により第一回ノーベル生理学・医学賞の有力候補にもなった。
39歳で帰国、私立伝染病研究所を設立し所長になり、香港でペスト菌も発見した。
太って赤ら顔、声が大きく、激しやすく、あだ名は「雷おやじ」。
敵も多く、伝染病研究所を官に取り上げられると文部省と喧嘩し、東大医学部とも仲が悪かった。
この北里を援護したのが福沢諭吉で、その恩に報いるために慶應義塾大学に私立で初の医学部をつくった。また北里研究所を立ち上げて優れた研究者を育て、日本医師会初代会長もつとめた。
北里は社会の福利を常に考え、「学術を研究し、これを実地に応用し、国民の衛生状態を向上させたい」が口癖だったという。
新札の3人に共通するのは「至誠」と「情熱」であり、将来を見通す確かな目であった。
またいずれもが官を頼らず民に徹した。さらに大学の創設など教育を重視したことでも明らかなように、社会貢献を常に意図した。
決してぶれることのなかった3人の姿勢は、令和を迎えた新時代にあっても、最も大切なものといえよう。
更新:11月24日 00:05