天皇という存在を読み解く鍵は、激動の時代にこそあるのでは?
現在発売中の月刊誌『歴史街道』6月号では、『「天皇と日本史」の謎』という特集を組み、天皇が戦乱といかに向き合ったかを探っている。しかし、「天皇と日本史というと、少し難しそう…」という方のために、これだけは押さえておきたい天皇と日本史の関係について、歴史研究家の河合敦氏に解説していただこう。まずは、古代から応仁の乱ごろまでをご紹介します。
※本稿は、歴史街道2019年6月号特集『「天皇と日本史」の謎』より、一部を抜粋、編集したものです。
災害等の被災地をお見舞いする皇族の方々の姿を見て、天皇という存在を身近に感じる方も多いでしょう。
また、「令和」という新たな時代を迎え、天皇について考える人もいることでしょう。
しかし、「日本人にとって天皇という存在がいかなるものなのか」と問われると、答えに窮してしまう人は少なくないはずです。
ある面で、日本史は天皇の歴史と言ってもいいかもしれません。天皇は政治的な実権を握り続けたわけではありませんが、天皇なくして、日本の為政者は権力を維持できなかったからです。
ここでは、天皇という存在を考えるヒントとして、「天皇と日本史」の流れを解説していきましょう。
まず3世紀後半あたりに、現在の奈良県にあたる大和地方を中心とする畿内の政治勢力によって、ヤマト政権(大和朝廷・倭王権)が成立し、四世紀中頃までには東北地方中部まで、勢力を広げたと考えられます。
ヤマト政権は近畿地方を中心とする豪族たちの連合政権で、そのリーダーが「大王(おおきみ)」、のちの天皇となります。大王については様々な説があり、呪術を掌る司祭者的存在として豪族に擁立されたとも、当初は複数の豪族が交代で大王を務めたともいわれます。
やがて、全国を平定していく中で、天皇は司祭者から、武人的な性格へと変化していきました。古墳の副葬品から、それが窺えるのです。
現在の歴史学の世界では、『日本書紀』『古事記』の記述をすべて史実とするのは難しいとされ、神武天皇から始まる歴代天皇も、どこからが実在の人物とするかは、様々な議論があり、定まっていません。
いずれにしても、古代において天皇が強大な権力を持っていたかというと、そうではありません。七世紀前半頃までは、地方を平定していきつつも、そのまま地方豪族に民の支配を任せているからです。豪族を強力に支配するというより、豪族の上に立つ象徴的な存在だったといえるかもしれません。
しかし大化元年(645)の大化改新を機に、天皇の権力は徐々に強まっていきます。
中国に隋・唐という強大な中央集権国家が成立したことで、「侵略され支配を受けるのでは」という危機感が国内に高まり、唐のように天皇を中心とした中央集権化を進めようという動きが出てくるのです。
その中で特筆すべきは、天武元年(672)の壬申の乱でしょう。大海人皇子(のちの天武天皇)が武力によって近江朝を倒し、強大な権力を手にしたことで、中央集権化が急に進んでいくこととなるのです。
皇族を上位とする新たな氏姓制度である八色の姓の制定、豪族の私有民を禁じ所有地の一部を公収する公地公民、富本銭という貨幣の鋳造、国史の編纂事業も開始されました。
「天皇」の称号や「日本」の国号も、天武の時代に用いられるようになったといわれます。
様々な見方がありますが、この天武の時代に、日本は大きく動き出したと位置づけられるのではないでしょうか。
天武の後は、天皇の権力が比較的強い時代が続きます。とくに桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇など、平安初期の天皇は、強い権限をもって、親政を行ないました。
一方で、奈良時代から藤原氏(北家)の力が強まり、平安中期になると、天皇の外戚(母方の親戚)の地位を独占するようになります。
その結果、9世紀後半から、藤原氏の当主が外戚として摂政や関白となり、天皇を奉じて政治を主宰する摂関政治を始めます。これは、平安時代の通い婚という結婚制度が関係しています。貴族の夫婦は同居せず、天皇の皇子らも母方の家で育てられました。
これによって、天皇は摂関家の影響下に置かれ、あまり表に出なくなり、朝廷の象徴的な存在となっていくのです。
更新:11月22日 00:05