2018年02月21日 公開
2023年12月14日 更新
焼火神社(島根県隠岐郡)
隠岐島への航海中、遭難しかけた後鳥羽上皇が御神火で導かれたと伝えられ、海上の守護神として信仰を集めている。
延応元年2月22日(1239年3月28日)、隠岐で後鳥羽法皇が崩御しました。鎌倉幕府倒幕のために挙兵(承久の変)したことで知られます。
後鳥羽法皇は後白河法皇の孫で、安徳天皇の異母弟にあたります。寿永2年(1183)、平氏が安徳天皇を奉じて西国へ逃れると、後白河法皇の後押しで即位したのが後鳥羽天皇でした。そのため、安徳天皇在位中に重複して後鳥羽天皇がいたことになります。
壇ノ浦の合戦で安徳天皇が入水した際、三種の神器のうちの宝剣も海中に失われました。このため後鳥羽天皇は、三種の神器が揃わないまま元服し、治世に臨むことになります。後ろ楯であった後白河法皇が他界すると、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられました。後鳥羽天皇は建久9年(1198)、土御門天皇に譲位し上皇となり、以後23年間院政を敷きます。
院政の改革に意欲的に取り組むとともに、『新古今和歌集』を自ら撰し、さらに頼朝死後の鎌倉幕府に対して、強硬な姿勢をとり続けました。
そして源千幡が3代将軍に決まると、「実朝」の名乗りを与えるなど、幕府への影響力を強めます。しかし実朝が暗殺されると、幕府の政務は「尼将軍」こと北条政子と、その弟で執権の北条義時があたることになり、上皇との対立が深まっていきました。
承久3年(1221)5月、「流鏑馬馬揃え」を口実に諸国の武士を集めた後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を発し、挙兵します。承久の変(承久の乱)の始まりでした。これに対し鎌倉では、北条政子が御家人たちを「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはず」と激励し、東海道、東山道、北陸道の三方から京を目指して攻め上ります。その数、一説に19万。院宣よりも幕命を御家人たちが重んじたことは、後鳥羽上皇の予想外でした。
上皇方はなすすべもなく敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へと配流されたのです(配流直前に出家し、法皇となっていました)。後鳥羽法皇が配流先で崩御したのは、その18年後です。
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
この承久の変を境に、朝廷と幕府の力関係は以後、幕府が上に立つことになります。
更新:11月21日 00:05