静岡県伊豆の国市蛭ヶ小島にある源頼朝・北条政子像
嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)、北条政子が没しました。源頼朝の正室、また尼将軍としても知られます。
保元2年(1157)、政子は伊豆国の豪族・北条時政の長女に生まれました。父の時政は、平治の乱で敗れて伊豆に流されていた源頼朝の監視役です。ところが政子は流人の頼朝と恋に落ち、慌てた時政は政子を伊豆目代の山木兼高に嫁がせようとしますが、婚礼の夜に抜け出して、頼朝のもとに走ったといわれます。政子21歳の時でした。ほどなく政子は大姫を出産、父の時政も二人の仲を認め、頼朝の強力な後援者となりますが、一方で時政には頼朝に力を貸すことが将来の布石になるという計算も当然あったでしょう。
治承4年(1180)、平氏打倒の挙兵を行なった頼朝を時政は支援し、石橋山の合戦で敗れて長男の宗時が討死しますが、次男の義時とともに頼朝を助けて安房に逃れ、さらに再挙して鎌倉に本拠を置きます。政子も鎌倉に移り住み、御台所と呼ばれるようになりました。
養和2年(1182)、懐妊した政子は嫡男の頼家を生みますが、その間に頼朝は亀の前を寵愛して通っており、耳にした政子は激怒して夫婦喧嘩となります。それは鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に記録されるほど壮絶でした。政子は亀の前のいた屋敷に兵を送って破壊させ、これに頼朝が怒って、指揮官のもとどりを切ってしまいます。ところがこの男が時政の後妻・牧の方の身内であったため、今度は時政が腹を立てて伊豆に引き上げました。もはや夫婦喧嘩のレベルを超えて、鎌倉中の大騒動となってしまうのです。当時、平安貴族は一夫多妻が珍しくなく、頼朝もそうした感覚だったのでしょうが、政子にすれば裏切りでした。
元暦2年(1185)、頼朝の弟・義経が平家一門を壇ノ浦に滅ぼしますが、やがて兄弟は対立し、挙兵に失敗した義経は逃亡、愛妾の静御前が捕えられ、鎌倉に送られます。白拍子の舞を命じられた静は、舞いながら義経を慕う歌を謡い、これに頼朝が怒りますが、政子はむしろ静を貞女と褒め、頼朝もしぶしぶ褒美を与えました。静が義経の子を生んだ際も、政子は助命を願い出ますが、男子であったために殺され、政子は静を憐れんで気遣っています。
建久3年(1192)、政子は次男・実朝を生みますが、その数日前に頼朝は征夷大将軍に任ぜられていました。翌建久4年(1193)、頼朝は富士で巻狩りを催し、息子の頼家が鹿を獲ると、喜んで使者を立てて政子に知らせますが、政子は「武家の跡取りが鹿を獲るなど当たり前」と応えたといわれます。なお、この巻狩りの際に、有名な曾我兄弟の仇討ちが起きました。
建久10年(1199)、頼朝は落馬がもとで死去。政子は落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれます。政子は次第に政治のイニシアティブをとるようになり、夫・頼朝とともに築いた幕府を守ることに尽力しました。二代将軍となった息子の頼家は、外戚の比企氏の勢力を背景に北条氏に対抗しようとしますが、北条時政によって比企一族は滅ぼされ、頼家は伊豆の修善寺に幽閉された末、暗殺されました。
この時は涙をのんだ政子でしたが、代わって三代将軍となった実朝を、初代執権となった時政が密かに廃そうとしているのを知ると、政子は弟・義時とともに父・時政を出家させ、伊豆に追放しています。ところが実朝は和歌や貴族趣味に熱中するばかりで、頼りになりません。そして建保7年(1219)、実朝は鶴岡八幡宮の境内で、兄・頼家の忘れ形見公暁に暗殺され、その公暁もまた、将軍殺しの下手人として殺されました。身内を次々と失う悲劇に見舞われた政子は、悲嘆のあまり身投げすることすら考えたと記録にあります。
しかし、そんな政子は否応なく、政治の表舞台に立たされることになります。 承久3年(1221)、倒幕の決意を固めた後鳥羽上皇との対決を前に、動揺する御家人たち。政子は彼らを集め、見事な演説をします。
「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い。逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。上皇の近臣を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」
この政子の気迫に御家人の動揺はぴたりと収まり、幕府は19万もの大軍で京を制圧しました。政子は幕府の基礎が磐石となったのを見届けて、嘉禄元年に没。享年69。
あるいは政子こそが、最も将軍に向いた人物だったのかもしれないと思えてきますが、さて、この北条政子の波乱万丈人生、はたして幸せだったのでしょうか。
更新:12月04日 00:05