建暦3年5月3日(1213年5月23日)、和田義盛が鎌倉幕府軍に討たれました。「和田合戦」の名で知られます。
和田義盛は久安3年(1147)、相模国三浦郡の豪族三浦義明の長男・杉本義宗の子に生まれました。通称、小太郎、太郎。義盛が三浦家の惣領を継承できなかったのは、生母の身分が低かったためといわれ、義盛は和田姓を称します。
長寛元年(1163)、17歳の時に父・義宗が没。承安4年(1172)から正治元年(1199)までの27年間に、義盛は6人の息子と3人の娘をもうけました。治承4年(1180)、34歳の義盛は源頼朝の挙兵に応じ、叔父の三浦義澄ら一族とともに、石橋山を目指します。しかし途中で頼朝の敗報に接し、三浦半島に戻ろうとしたところ、鎌倉由比ガ浜で平家方の畠山重忠に遭遇し、合戦となりました。この戦いは痛み分けで双方兵を引いたようですが、2日後、本拠の衣笠城に戻った義盛を、畠山を含む平家軍が襲います。衆寡敵せず、義盛は手勢とともに城を脱して海路安房国へ渡り、そこで同じく逃れてきた頼朝と合流しました。
この時、義盛は、敗軍の将の頼朝に「頼朝公にお目通りかなったのは、これに過ぎる喜びはありません。どうか、天下をおとり下さい。めでたく本懐遂げられた暁には、それがしめを侍所別当に任じていただけますよう」と激励したといいます。
やがて、頼朝は関東一円を制圧し、大軍勢となって鎌倉に凱旋。さらに富士川の戦いで平家軍に大勝します。義盛は頼朝から侍所別当に任ぜられ、並みいる御家人の中でも重んじられました。義盛と頼朝は同い年であり、頼朝はより親しみを覚えたのでしょうか。
義盛はその後、頼朝の弟・範頼の麾下となって平家追討のため西国に赴きますが、長期間にわたる遠征で義盛も士気を下げたようです。しかし続く奥州攻めでは、藤原国衡を討ち取る武功を上げました。
建久元年(1190)、源頼朝の上洛に際しては先陣随兵を務め、頼朝の推挙で左衛門尉に任官。義盛にとっても、晴れがましい出来事であったでしょう。
建久3年(1192)、侍所別当を梶原景時と交代します。『吾妻鑑』によると、梶原が義盛を騙して職を奪ったことになっていますが、それが事実であれば義盛も黙ってはいなかったでしょう。梶原を貶めるための記述のようにも思えます。 建久10年(1199)、源頼朝、死去。これが鎌倉幕府の大きな転換点となり、頼朝の信頼篤かった義盛にとっても、転機となりました。
2代将軍となった源頼家に対し、主要な御家人13人が宿老として合議制を布きます。義盛はその中の一人でした。ほどなく梶原景時が失脚すると、義盛は侍所別当に復職します。 この頃から、北条氏が露骨に権力奪取へと動き始め、有力御家人を次々と滅ぼしました。梶原景時討伐に続いて、建仁3年(1203)には比企能員を滅ぼし、翌元久元年(1204)には2代将軍頼家の将軍職を剥奪した上、命を奪います。
頼家に代わる将軍として擁立したのが、頼家の弟・源実朝でした。北条時政は初代執権となります。さらに元久2年(1205)、畠山重忠、平賀朝雅を滅ぼすと、北条義時は実朝の廃立を策す父・時政を追放し、二代執権となりました。 かくして北条氏にとって、残る最大の対抗勢力は和田義盛ということになります。
以後、北条義時はことごとに義盛を挑発する行動に出ました。さすがの義盛も腹に据えかね、挙兵も辞せずという構えに至ります。案じた将軍実朝が義盛のもとへ使者を送ると、義盛は「上(将軍家)には何の恨みもございません。相州(義時)のあまりの傍若無人に我慢ならず、仔細を質すべく、出向こうとしているのです」と答えました。
挙兵にあたり義盛が頼みとしたのは、義盛の本家にあたる三浦一族です。最初は同心していた三浦義村ですが、途中で心変わりして義盛への支援を中止しました。やむなく義盛は5月2日、一族のみの150騎で挙兵に踏み切ります。数は少ないですが、幕府軍を相手に武勇を誇る和田一族の奮戦は目覚しく、特に義盛の3男・朝比奈義秀の戦ぶりは見事でした。 翌3日、数で劣る義盛方が押されますが、午後に血縁の横山党が来援し、軍勢は一挙に3000騎に増えたといわれます。この事態に義時は焦り、将軍実朝の名で御教書を発することで、御家人の幕府方への加担を促しました。さしもの義盛の和田勢も夕刻には敗勢となり、やがて長男の義直が討死。義盛は悲嘆しているところを敵に討ち取られました。享年67。
草創期の功臣がやがて邪魔者にされていくのは、時代や洋の東西を問わずよく見受けられるもので、現代の組織にも通じる点はあるのかもしれません。そんな時にどう対処するのか、義盛の悲劇は何かを教えてくれているようにも思います。
更新:11月24日 00:05