まずそもそも木曾義仲とはどんな人物でしょうか。
歴史好き! という方でも、彼がどれほど数奇な人生を歩んだか、詳しくご存知の方は少ないかもしれません。
本名は源義仲。
鎌倉幕府をひらいた源頼朝や、義経の従兄弟にあたります。
つまり、源義家を先祖にもつ、由緒正しい源氏の血筋です。
なぜ「木曾」と呼ばれるかというと、まさに信州・木曾で育ったから。
二歳のとき、源氏の内紛で父を殺され、孤児となった義仲は、とある武士に匿われ、木曾の豪族・中原兼遠〈なかはらかねとお〉のもとに預けられます。
(その「とある武士」と、後年、因縁的な形で再会することになるのですが……)
兼遠の家には、義仲と年が近い息子や娘がおり、彼らはまるで兄弟のように仲睦まじく、切磋琢磨しながら文武両道の腕をあげていきました。
さて、その当時は、まさに平氏の世。義仲の父が殺された五年後、平治の乱で源氏が敗北して以来、源氏の多くは表舞台から姿を消していました。
しかし東日本各地に散らばった源氏の生き残りたちは、
「いずれ平家を追い落として源氏の世に……!」
と腹に誓って、反撃のときを待っていました。
義仲もその一人だったのです。
自分の身体には、貴い源氏の血が流れている。いつかその使命を果たさねばならない――。
「いつか」は義仲が二十七歳のときに訪れました。
以仁王〈もちひとおう〉が、平家打倒の令旨を全国の源氏に下し、源頼政とともに挙兵したのです。
その挙兵自体は失敗に終わったものの、義仲の背中を押すには充分でした。
義仲は、幼なじみである中原の息子・娘たちとともに、自ら源氏の旗をあげ、平氏の席巻する京都へと進軍していくのです。
これまで義仲は、京都制圧以後の、「荒くれ者」「無教養な残虐者」「頭の悪い山猿」というイメージで語られてきました。
しかし、これは讒言にすぎません。
木曾から京都へ攻め入る手腕の鮮やかさ、信州・北陸中の武士をあっというまに味方につける類まれなる求心力、養父や幼なじみらとの死んでも切れない絆……。
さまざまな方向から見てみると、義仲は猿なんかではない、見事な頭脳とあたたかい心をもった、もっと賞されるべき「武将」だということが分かってきます。
さて、発売前に多くを種明かしするのも無粋ですので……
ぜひ、弊誌7月号でじっくり味わっていただけますと幸いです。
更新:11月24日 00:05