斎藤実盛像(聖天山 歓喜院長楽寺/埼玉県熊谷市)
寿永2年6月1日(1183年6月22日)、斎藤実盛が討死しました。平安時代に武蔵国幡羅(はら)郡長井庄を本拠とし、長井別当とも呼ばれた武将です。
天永2年(1111)、越前国に生まれた実盛は、13歳の時に武蔵国長井庄の斎藤実直の養子となり、武蔵武士として成長しました。斎藤氏は2代前より源氏に仕えています。
久寿5年(1155)、鎌倉の源氏の棟梁・源義朝と、義朝の弟で大蔵館(現、埼玉県嵐山町)に暮らす義賢が武蔵国をめぐって対立、義賢は義朝の息子・悪源太義平に討たれました。地理的に義賢に従っていた実盛でしたが、以来、義朝に仕えるようになります。しかし、義賢の恩も忘れず、義賢の遺児・駒王丸をかくまい、密かに信濃の中原兼遠(妻が駒王丸の乳母)のもとに送り届けました。この駒王丸が後の木曾義仲です。時に実盛、45歳。
その後、保元の乱、平治の乱では義朝に従い、上洛して武功を上げましたが、平治の乱で義朝が敗死すると、武蔵国は平清盛の次男・宗盛の支配となり、実盛も平氏に従うことになります。
治承4年(1180)、義朝の息子・源頼朝が挙兵しますが、実盛は平宗盛への恩に報いるため、平氏に留まりました。富士川の合戦で敗れた平氏軍は寿永2年(1183)、信州で挙兵し北陸道を進む木曾義仲を討つべく、平維盛を総大将として出陣。実盛もこれに従います。実盛は維盛より拝領した赤地錦の直垂をまとい、老齢を敵に侮られぬようにと白髪を黒く染めて戦いに臨みました。これが最期の戦いと覚悟をしていたようです。そして加賀国の篠原の戦いにおいて、勢いに乗る義仲軍の前に味方が崩れる中、実盛は最前線に踏みとどまって奮戦し、敵方の手塚太郎光盛との戦いの末に討ち取られました。享年73。
実盛は最後まで名乗らなかったため、敵も実盛であることがわかりませんでしたが、首実検の際に義仲側近の樋口兼光が気づき、義仲が実盛の髪を池で洗わせたところ、白髪となって、紛れもなく実盛とわかりました。義仲は幼少の自分を守って、信州に送り届けてくれた命の恩人の最期に、人目もはばからず泣き崩れたといいます。
更新:11月22日 00:05