2015年05月02日 公開
2023年10月04日 更新
畠山重忠という人物、ご存じでしょうか。源頼朝に仕え、治承・寿永の内乱での平家追討や、奥州攻めで活躍、鎌倉幕府創業の功臣と謳われ、頼朝も深く信頼して死に臨んで後事を託しました。しかしその後、北条時政と時政の後妻・牧の方の謀略によって謀叛の疑いをかけられ、滅びます。
重忠は武勇抜群で数々の武功があり、しかも清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑〈かがみ〉」と称された人物でした。一説に京都で木曾義仲配下の巴御前と一騎打ちし、重忠の怪力ぶりにさしもの巴も敵わぬとみて、退却したとなどという話もあります。
そんな重忠が文治3年(1187)、24歳の頃から居住していたといわれる(『吾妻鏡』)のが、菅谷館でした。
嵐山町は埼玉県中部に位置し、鎌倉街道が走っていたといわれます。また江戸時代には、武蔵国と上野国を結んで中山道に至る児玉街道の菅谷宿がありましたから、交通の要衝といえるでしょう。
この菅谷館のある菅谷の地を、秩父平氏の流れを引く畠山氏が本拠としていました。館近くの中世寺院跡からは、重忠の曽祖父にあたる「平朝臣茲縄〈たいらのあそんしげつな〉」(秩父重綱)の銘のある久安4年(1148)の経筒(経を納めた容器)が出土しています。
なお秩父氏は坂東八平氏の一つとされ、その中の畠山氏は、河越氏、江戸氏、豊島氏らと同族といわれます。桓武平氏流の平良文を祖とする坂東八平氏は、平清盛に代表される伊勢平氏とは別系統で、武蔵周辺で有力武士団を率いていました。
さて、菅谷館です。東武東上線の武蔵嵐山駅から南へ徒歩約10分、国道254号線バイパスに面して搦手〈からめて〉門跡があり、ここから入るのが便利です。
搦手でさっそく目につくのが、堀と土塁です。菅谷館は平城ですが、高く盛られた土塁が、館跡の雰囲気を実によく感じさせます。
搦手から入ってすぐに、「嵐山史跡の博物館」があり、菅谷館についても詳しく解説しているので、必見でしょう。館跡からの出土品や、板碑、五輪塔なども展示しています。
博物館の脇から館跡の郭〈くるわ〉内に出ることができます。そこが三ノ郭。菅谷館は南寄りの本郭を取り囲むように、南に南郭、北西に二ノ郭、北に三ノ郭、西に西ノ郭が配され、それぞれが深い空堀と高い土塁で囲まれて、堅牢なつくりとなっています。
面積は東京ドーム約3個分といいますから、かなり広大です。南には都幾〈とき〉川が流れ、天然の堀とされました。もっとも現在の姿は、戦国時代に使われた時のものですから、畠山重忠当時のものは、おそらくもっとシンプルだったのでしょう。
写真は畠山重忠像と本郭の出桝形土塁
しかし同じ館が戦国期にも城として活用されているわけですから、城塞としての立地は、十分であったといえます。ちなみに室町末期には山内上杉氏と扇谷〈おうぎがやつ〉上杉氏の争乱の舞台となり、城郭として機能しました。
そして三ノ郭から二ノ郭に入る門跡の小高い場所に、木々に囲まれて畠山重忠の石像が立っています。建っているというより、立っているという方がぴったりのリアルな石像で、甲冑姿でなく、直垂〈ひたたれ〉姿なのが、非常に印象的です。
まるで重忠が時を超えて、ゆらりと現われたような気にさせられます。そしてそんな重忠がここに館を構えて生活していたことを思うと、郭に建物が建ち並び、人々の喧騒や馬のいななきが聞こえてくるような、錯覚が楽しめるかもしれません。
元久2年(1205)6月、重忠の息子・重保〈しげやす〉が鎌倉において謀略で殺害され、さらに重忠のもとに「鎌倉で異変が出来、急ぎ参じるべし」の報せが来て、重忠は130騎を率いて、菅谷館から鎌倉へと駆けます。
ところが武蔵二俣川(現在の横浜市旭区)付近で北条義時が数万の軍勢で自分を待ち構えていることを知り、重忠はかなわぬことを承知でこれに挑み、討死しました。享年42。
悲運の名将・畠山重忠ゆかりの菅谷館。一度、出かけてみてはいかがでしょうか。
更新:11月21日 00:05