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鎌倉幕府滅亡~新田義貞の鎌倉攻めと北条高時一族の最期

2017年05月22日 公開
2021年08月31日 更新

5月22日 This Day in History

東勝寺跡(鎌倉市)

東勝寺跡(鎌倉市)
 

今日は何の日 正慶2年/元弘3年5月22日

北条高時が東勝寺で自刃。鎌倉幕府が滅亡

正慶2年/元弘3年(1333)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条高時らが自刃。鎌倉幕府が滅亡しました。

5月8日に上野国新田庄の生品神社で挙兵した新田義貞は、小手指ヶ原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで鎌倉幕府軍を打ち破り、5月18日、ついに鎌倉攻撃に着手します。しかし、鎌倉は源頼朝以来、三方を山に囲まれ一方が海という、攻めるに難く守るに易い天然の要害の地として知られていました。

鎌倉に入るには、7つの口があります。すなわち名越、朝比奈、巨福呂坂、亀ヶ谷、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂で、いずれも山を掘削して人馬の通行を可能にした「切通し」と呼ばれる難所でした(七口は語呂合わせで、当時は七つではなかったとも)。これらの狭い口さえ守れば、鎌倉は決して外敵の侵入を許すことはないのです。

5月18日、義貞は軍を三つに分け、三方向から鎌倉に攻めかかりました。右翼は大舘宗氏を主将に、江田行義、里見義胤らが極楽寺坂へ、左翼は堀口貞満を主将に、大島守之、千葉貞胤らが巨福呂坂へ、そして義貞自ら率いる本軍は弟の脇谷義助らを従えて、化粧坂へ向かいます。これに対し鎌倉幕府軍は、極楽寺坂には大仏貞直、長崎高重、巨福呂坂には赤橋守時、普恩寺入道信忍(北条基時)、そして化粧坂には金沢貞将らが備えを固めました。このうち赤橋守時は、妹が足利高氏の正室であったため北条高時に内通を疑われるのをよしとせず、果敢に撃って出ます。数で勝る堀口勢に突撃すること、1日で65度にも及び、ついに敵を洲崎(現、深沢付近)まで押し返しますが、赤橋らはそこで力尽き、自刃しました。堀口勢はこの機に鎌倉に攻め込もうとしますが、巨福呂坂を突破することはできません。切通しを突破できないのは極楽寺坂も化粧坂も同じで、攻防は5日間続きますが、極楽寺坂では主将の大舘が敵に本陣に攻め込まれ、討死するほどの激戦でした。一説に大舘は、稲村ヶ崎の防衛線突破に成功したものの後続がなく、討ち取られたともいいます。現地には「十一人塚」が建ちます。

新田義貞の攻める化粧坂の敵・金沢貞将も全く付け入る隙を見せず、やむなく義貞はこの方面を脇谷義助に任せ、自らは21日、主将の大舘を失った極楽寺坂方面に移りました。そして『太平記』によると義貞は21日深夜、稲村ヶ崎において龍神、八部衆に祈りを捧げ、黄金造りの太刀を海中に投じると、潮が引いて陸地が現われたといいます。干潮でした。義貞軍はそこから海岸線を突破、極楽寺坂を守備する幕府軍の背後に回ってこれを突き崩し、鎌倉市街に突入します。義貞軍が突入した知らせに各口を守備する幕府軍も動揺し、巨福呂坂も化粧坂も破られ、新田の全軍が鎌倉を制圧しました。金沢貞将らは最後の猛攻を仕掛けて壮絶な討死を遂げ、北条高時は一門とともに東勝寺に入り、一族は悉く自刃します。一説に北条一族287人とその家臣870人が最期を遂げ、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。

時に正慶2年/元弘3年年5月22日。なお東勝寺跡の北方にあるのが通称「腹切りやぐら」ですが、実際にここで腹を切ったわけではありません。

北条多可時腹切りやぐら
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