2017年05月17日 公開
2019年04月24日 更新
鎌倉・鶴岡八幡宮の太鼓橋
当時は朱塗りの板橋であったので「赤橋」と呼ばれていた。赤橋流北条氏は屋敷をこの付近に構えたことから「赤橋」を名乗ったという。
正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日)、鎌倉に攻め込む新田義貞の軍勢との激戦の末、赤橋(北条)守時が討死しました。鎌倉幕府第16代執権で、最後の執権です。
赤橋守時はさほど知名度は高くないかもしれませんが、彼の妹・登子は足利高氏(尊氏)の正室です。つまり守時は高氏の義兄ですが、それがやがて彼の立場を苦しいものとしました。
赤橋流は6代執権北条長時を祖とし、庶流ながら家格は高いものでした。しかし当時の幕府は北条得宗家が実権を握っており、それは嘉暦元年(1326)に守時が32歳で16代執権に就任した後も変わりません。すなわち実力者は、元14代執権で出家した北条高時(崇鑑)と、内管領の長崎高資(長崎円喜の息子)らでした。
そもそも守時が執権に就任したいきさつも、出家した北条高時の後継をめぐって、長崎高資と得宗家外戚の安達氏が対立。高資は高時の息子が長じるまでの中継ぎとして金沢貞顕を15代執権としますが、対立は収まらず、貞顕は早々に辞任しました(嘉暦の騒動)。そこでやむなく、急遽ひっぱり出されて16代執権に就任したのが、赤橋守時であったのです。
ところで長崎高資の内管領とは、得宗家に仕える武士(御内人)の頭であり、御内頭人ともいいます。得宗家の家政を司る者であって、幕府の役職ではありません。ところが高資は次第に北条高時をも凌ぐ権勢を得るようになり、有力御家人で構成される幕府最高の政務期間・評定衆の一人にも加わります。御内人が幕府評定衆に加わるのは、異例のことでした。
元弘元年(1331)には高資の専横に業を煮やした北条高時が、高資排斥を企てているという風説が流れ、高資によって高時の側近たちが処罰され、高時は関与を否定することで身を守りました。もはや高時ですら高資に手を出せない状況であったのです。守時が執権を務めたのは、このように得宗家が揺れている最中でした。
同年、笠置で挙兵した後醍醐天皇に対し、幕府は足利高氏を向かわせて鎮圧に成功します。守時は執権として、妹婿に難事を託したことになります。
2年後の元弘3年、後醍醐天皇が再び伯耆で籠城すると、幕府はこれも再び足利高氏を鎮定に向わせます。この時、高氏は正室と息子を同道しようとしますが、幕府は許しませんでした。 あるいは幕府は高氏に対し、人質をとっておく必要を感じていたのでしょうか。 しかし4月29日、足利高氏は丹波篠村八幡宮で幕府打倒の挙兵を行ない、5月7日には京都に攻め込んで、六波羅探題を滅ぼしました。
一方、鎌倉では人質であった尊氏の正室・登子と、息子の千寿王丸(のちの義詮)が脱出に成功します。想像ですが、あるいは守時は、妹と甥の脱出を見て見ぬふりをしたのではという気にもさせられます。しかしこの事態に、守時の立場は急激に悪化しました。執権でありながら、幕府打倒を掲げる高氏に通じているのではないか…。自分たちが専横を極めた分、不満を抱く者も多いことを感じていた得宗家や長崎高資にすれば、守時に強い疑いの目を向けたのでしょう。
同じ頃、上州で新田義貞が討幕の挙兵を行ない、怒涛の勢いで南下、鎌倉に迫ります。そこで守時は5月18日、疑いを晴らす意味でも自ら軍勢を率い、新田軍を迎え撃ちました。 戦場は巨福呂坂の切通しであったとも、鎌倉への入り口にあたる大船方面の洲崎・千代塚であったともいいます。鎌倉の最後の防衛線よりも、多少でも遠くで戦おうとしたと考えるならば、後者かもしれません。
一説に、一昼夜に65度も干戈を交える激戦となり、赤橋守時は一歩も退かずに戦いました。しかし衆寡敵せず、洲崎付近で90余人とともに自刃したといわれます。享年39。
かつての洲崎である鎌倉市深沢地域に泣塔と呼ばれる宝篋印塔があります。その背後のやぐらに戦死した北条方将兵が葬られたともいわれ、塔には夜な夜なすすり泣くなどの怪異譚が多く伝わります。
得宗家が専横を極める北条政権の先行きに絶望しながらも、北条武士としての意地を見せて討死した赤橋守時。その心情と、泣塔の伝説がどこか重なるような気がします。
泣塔(鎌倉市寺分)
更新:11月25日 00:05