摂関政治は、11世紀後半、転機を迎えます。治暦4年(1068)、170年ぶりに摂関家を外戚としない後三条天皇が即位。後三条は摂関家に遠慮なく政治を行なったため、事実上、摂関政治は終焉しました。
後三条が在位わずか五年で世を去ると、その第一皇子・白河天皇が即位します。
すると白河は、応徳3年(1086)、僅か8歳の我が子・堀河天皇に譲位。ところが慣例を破り、白河は上皇となっても権力を手放しませんでした。
自らの御所に財産を管理する院庁を開き、朝廷の太政官や国司などに院宣(上皇の命令文)をくだし、有能な近臣を集めて政務に大きく関与するようになったのです。
これが院政で、以降、鳥羽、後白河、後鳥羽にいたるまで、約百年間続くことになります。
白河は、異母弟の輔仁親王に皇統を渡したくなかったために、この異例の政治形態で権力を握り続けたと考えられます。
また白河は、武勇にすぐれた武士を引き立てて、北面の武士という親衛隊を組織しました。このような軍事力を持ったことも、院政を可能にした一因ではないでしょうか。
北面の武士の中には、平清盛の祖父・平正盛もいて、やがて院政下で力を蓄えた平家が、台頭することとなります。
そして、保元の乱・平治の乱を経ることで、武士の世となり、平家を倒した源氏によって、初の武家政権である鎌倉幕府が樹立されるのです。ただし、幕府の支配は当初、西国にまで及んでおらず、朝廷と幕府で権力を二分するかたちでした。
この関係を大きく変えたのが、承久3年(1221)の承久の乱です。この戦いに敗れた後鳥羽上皇は配流され、以後、朝廷は幕府の介入を受けるようになり、実質的に天皇も幕府の意向で決まる状態になりました。ここに、天皇は政治的な権力を失うことになります。
もっとも、権力は失っても、天皇の権威は失われたわけではありません。幕府は政権維持のために、源氏の血統が3代で途絶えてしまうと、摂関家、そして天皇の血筋に連なる人物を、将軍に祀り上げ続けました。
鎌倉中期、天皇家を二分する出来事が起きます。文永9年(1272)、後嵯峨法皇が亡くなった後、天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂して、皇位をめぐって争うようになります。これが後に、南北朝の争乱にも関わっていくのです。
文保2年(1318)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位します。やがて親政を始めた後醍醐は、倒幕を目指すようになりました。これは当時、朱子学が日本に入ってきたことが影響したとの説もあります。
朱子学には「君臣の名分を正して、絶対王権を確立する」、「覇者ではなく王者が政治をとるべき」という考えがあります。これを突き詰めると、「天皇が直接、国政を見るべき」との結論にいたります。
実際にそのように思ったかはわかりませんが、ともかく後醍醐は執念で幕府を崩壊にいたらしめ、元弘3年(1333)、建武の新政を始めました。
ところが、政権は僅か2年で、足利尊氏の離反を招きます。あまりに独裁的な手法により、武家だけでなく公家からも反発され、尊氏による室町幕府樹立へと繫がっていくのです。
尊氏が京都を占領し、持明院統の光明天皇を擁立すると、後醍醐は吉野に逃れて南朝を開きました。こうして南北朝時代を迎えますが、元中9年(1392)、室町幕府の3代将軍・足利義満の手によって、合一されます。
これは天皇家にとって大きな出来事ですが、新たな危機が迫っていました。
足利義満は長男の義持を将軍とし、さらに次男の義嗣を天皇にして、自身は公武の上に君臨し、天皇家を簒奪しようとしたとの説があるからです。
しかし応永15年(1408)、義満が急死。後を継いだ四代将軍・義持にはまったく簒奪の意志はなく、しかも、朝廷の政務を後小松天皇と公家たちに一任しました。
こうして危機を脱したかに見える天皇家ですが、応仁元年(1467)に応仁の乱が起きると、京都の市街地が焦土となり、大変なことになりました。
当時の朝廷は、幕府の保護をうけているような状況でしたが、乱によって幕府は衰退し、貴族も地方に避難してしまいます。
これによって朝廷の財政は逼迫し、明応9年(1500)に後土御門天皇が亡くなった際には、43日後に、ようやく葬儀が執り行なわれるほどでした。
さらに言えば、その後の後柏原天皇が即位式を挙行できたのは、何と、天皇になってから22年目のこと。この頃が、天皇家にとって、一番大変な時期だったといえるかもしれません。
更新:11月22日 00:05