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「壬申の乱」で読み解く古代史~必要のなかった戦い。それでも日本は大きく変わった

2018年08月09日 公開
2018年12月10日 更新

倉本一宏( 国際日本文化研究センター教授総合研究大学院大学教授)

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵
 

後継者争いを仕掛けたのは大海人と鵜野

「壬申の乱」の経緯は、次のようなものである。

天智10年(671)10月、病床の大王天智は弟の大海人王子(後の天武天皇)を呼び、大王位を譲ろうとするが、大海人は辞退し、大津宮を出て吉野へ。天智が没すると近江朝廷では、すでに政治に参画していた天智の長子・大友王子がその中心となった。ところが、吉野から伊賀・伊勢、そして美濃に向かった大海人が東国の兵を掌握、呼応した王族、豪族とともに近江朝廷を倒す──。大海人が吉野を発ってから大友が敗死するまで、約1カ月にわたって繰り広げられたこの戦乱は、基本的には大王位継承をめぐる争いである。

ただ本来であれば、天智亡き後、大海人の即位に議論の余地はなかった。

大王とは、群臣(まへつきみたち)が推戴するもので、親子ではなく兄から弟へと継承していくのが慣例であった。しかも歴代大王の母は、ほとんどが王族か有力豪族の出身である。 大友の母は地方豪族の娘で、本人が25歳と若いことも考えると、大海人以外に候補者は見当たらない。おそらく大友自身も、大王になれるとは考えておらず、あくまで王族の一人として、政治に関わることを考えていたはずである。

ところが、後継者争いが起こったのである。仕掛けたのは、大海人であった。

彼は即位できる立場であったにもかかわらず、なぜ政権を離れて野に下り、朝廷を倒すことを企てたのか──。
 

大海人には、ある“狙い”があった

大海人が近江朝廷を倒す最大の理由は、「リセット」だった。

当時、地方豪族の不満が高まり、ピークに達していた。 天智2年(663)、百済再興のために朝鮮半島へ出兵し、大敗を喫した(白村江の戦い)後、天智は唐が侵攻してくると危機感を煽って、挙国一致体制を推し進めた。なかでも豪族たちの反発が強かったのが、戸籍 (庚午年籍)の作成である。豪族の私民を把握したことへの不満が高まっていたのだ。

ところが、天智9年(670)、半島を掌握した新羅と唐の間で戦争が始まったことで、唐が攻めてこないことが明らかになる。豪族たちには、「天智に騙された」との思いが強かったはずだ。

天智からそのまま政権を受け継いだら、天智に対する不満や反発が、天智をサポートしていた大海人にも向けられるのは必定だった。

白村江の戦いの翌年に発せられた「甲子の宣」を、群臣の前で読み上げたのは大海人である。誰もが、大海人のことを天智の右腕だと考えていたのである。

それだけに、「あれは兄がやったことだ」と、すべての責任を天智に負わせるために、兄と決別する必要があったのだ。

つまり、反乱を起こして天智王権をリセットすることで不満の矛先を逸らし、そのうえで新しく自分の王権をスタートさせようとしたのだろう。

その背中を押したのが、大海人の妃である鸕野皇女(後の持統天皇)である。

大海人が大王になった場合、有力な後継者候補は四人いた。鸕野と大海人との間に生まれた草壁皇子、鸕野の同母姉である大田皇女が大海人との間にもうけた大津皇子、大友が大海人の娘との間にもうけた葛野王、そして鸕野自身である。

鸕野は、我が子の草壁に大王位を継がせたい。その際、邪魔になるのは大津と葛野王だ。近江朝廷を主宰する大友を倒せば、とりあえず、葛野王の線は消え、大津も近江朝廷によって殺されると考えたのである。

いずれにせよ、大友にしてみれば災難であった。突然、叔父の大海人が姿を消したことで、近江朝廷を主宰せざるを得なくなり、その後、逃げたはずの叔父が襲いかかってきて、滅ぼされてしまう。大友は、本当に気の毒だとしか言いようがない。

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