2018年08月09日 公開
2018年12月10日 更新
壬申の乱の前年の1月、唐から使者がやってきている。目的は、対新羅戦争への軍事協力の要請だ。これに近江朝廷が応じたことで、11月には白村江の戦いでの捕虜1400人が返還され、代わりに武器・軍事物資を提供している。
これは、近江朝廷が唐に与して、唐・新羅戦争に関わると決定したことを意味する。白村江の戦いの際には西国の兵が徴発されたが、今度は東国で兵が徴発されようとしていた。
大海人が吉野を出て美濃へと向かったのは、近江朝廷が集めようとしていた東国の兵を、麾下に収めるためであった。
いわば兵の横取りをしたのだが、その成功が乱の勝敗を左右した。 しかも、ほとんどの王族、中央の有力豪族、地方豪族が、大海人側についたことも決定打となった。
兵を率いる将軍クラスを見ると、名前のわかっている人が近江朝廷側に16人いる。そのうち大夫(まへつきみ)層は、3人にすぎない。近江朝廷側は総じて身分が低く、亡命百済人や僧侶なども含まれていた。
一方、大海人側で功臣として挙げられている人のうち、11氏17人が大夫層出身である。
要するに、近江朝廷側は支持勢力が少なかったのである。中央有力豪族である大伴、阿倍氏も含まれておらず、亡命百済人を優遇していたため、旧渡来系の東漢(やまとのあや)氏なども距離を取っていた。
兵力の差、実戦の指揮者の差、支持層の差に加え、武器の差もあった。近江朝廷は捕虜の返還の代わりに、唐の使者に武器・軍事物資を提供していたことも痛手となった。
また、モチベーションの差もあった。
大海人側には、新しい国を作るという大義が掲げられていた。わかりやすい目標があれば、人は鼓舞されやすい。さらに、勝ったら恩賞をもらえるだろうから、戦う兵たちの士気も高かった。
対する大友方は、たとえ勝っても現状維持であり、豪族やその下で戦う兵たちにとって、ほとんど旨味がない。
このように、大海人方と大友方では圧倒的な差があり、戦う前から勝敗は明らかだったといえよう。
壬申の乱は「古代最大の戦乱」と称されもするが、死者の数も少なく、国を二分するほどの大きな戦乱ではなかったと思われる。
当時は、1人ひとりの兵が国家に忠誠を尽くすような時代でもない。しかも、農民兵が訓練を受けるのは律令制になってからで、このときの農民兵はまったく訓練を受けていない。 よって、少しでも形勢が不利になると、兵はすぐに逃げる。そして、逃げても殺されることはない。豪族は農民兵が自分のところに逃げてきたら、私民として取り込んで保護したはずだからだ。
こういうことを踏まえれば、壬申の乱の戦死者はおそらく1000人もいなかっただろう。ほとんどが戦いにならない戦いであり、瀬田川を挟んでの最終戦が、唯一の激戦だったと思われる。
壬申の乱がそれほど大きな戦乱ではなかったとしても、後世に対する影響と意味はきわめて大きかった。この後に、天皇制と律令制が成立するからである。
天武2年(673)に即位した大海人王子は、「天皇」という君主号を採用した。それまでの「大王」と「天皇」は何が違うのか。
「大王」は王の中の王であって、1番偉い王ではあるものの、ワン・オブ・ゼムである。
一方、「天皇」号は、「道教の最高神のこと」「北極星を意味する」ともいわれるが、天帝(天上の最高神)の「天」と、皇帝(地上の最高権力者)の「皇」を組み合わせたと考えられる。これは「すめらみこと」と読まれた。 「すめらみこと」とは「清浄な貴人」を意味し、権力者のことではない。「天皇」は現実の権力を超越する唯一無比の存在と定義でき、「大王」とは次元が異なるのだ。 こうしたことは、壬申の乱で圧倒的な勝利を収めたからこそ、実現できたのである。
この天皇制が永続性をもち、今日まで続いているのは、天武天皇の後継者が大津皇子ではなく、草壁皇子になったことが影響している。
『日本書紀』によると、大津皇子は力が強く、頭もよかった。この実力ある大津が皇位を継げば、天皇という存在が、専制君主的な性格をもつようになったに違いない。そうなると逆に、天皇が実力のある者に倒される──易姓革命が起こり得る事態になっていたことも考えられる。 草壁は大津に比べれば、実力は劣る。それでも、自分の息子に跡を継がせたい鸕野皇女が、草壁を強引に後継者にしたと言われている。大津ではなく草壁という選択が、「政治権力を放棄してでも、継承を重んじる天皇制」を生みだす結果につながったわけだ。 天武の死後すぐに、大津は謀反を疑われて自害することになるが、草壁も病死してしまう。結果、鸕野が即位して持統天皇となる。
天皇の永続性という点では、その後、天皇と藤原氏との〝同盟関係〟ができたことも、それを支える要因となった。
天孫降臨に随従した天児屋命(あめのこやねのみこと)を藤原氏の祖とする神話が作られ、藤原氏は「天皇を守る」ことを職務とする氏族となった。ゆえに、藤原道長のように圧倒的な権力を握った者でも、天皇を滅ぼさない。
その後、政治権力を握った平氏にしても源氏にしても、天皇家から分かれた氏族だから、当然、天皇を倒そうとはしない。こうして革命が発生せず、天皇制が守られていったのである。
律令制に関しては、天智が白村江の戦い後に危機感を煽っても、「公地公民」までは実現できなかったが、天武は私有地を収公し、天武10年(681)に律令制定の詔を発している。これもまた、乱で圧勝した天武だから可能だったのである。
天智の強権は、もっぱら陰謀と暗殺によるものだった。中央の有力豪族たちは怖れを抱いたかもしれないが、それらはいわば宮廷の密室劇にすぎない。ほとんどの地方豪族は関係がなく、天智に従わなくても、滅ぼされたりしないと考えただろう。
しかし、吉野から伊賀、伊勢を経由して、美濃に入り、近江へ進軍した大海人王子ならば、実際に攻めてくるかもしれないという危機感を、地方豪族に抱かせたのである。その恐怖心が、公地公民という大改革を実現させるうえで大きな力になった。
もっとも、持統・文武の時代に、律令制の必要性があったかどうかは疑問である。たしかに、唐が攻めてくるのであれば、挙国一致で対応するためにも、律令制は必要だったかもしれない。 ところが、持統の時代ともなれば、唐は絶対に攻めてこない。それでも律令制への歩みを止めなかった。たしかに、先進国である唐を見習おうとしたのだろう。ただ、いったん始めたら止められないのが、日本の体質でもある。 こうして作られた大宝律令はしかし、実は古い中国の律令をベースにして編まれたものであった。唐では次々に律令を改定していたが、天武・持統の時代は唐に使節を送っていない。そのため、60年くらい前の遣唐使が持ち帰った古い律令をベースにしていたのである。
そういう意味でも、律令を作ること自体に重きを置きすぎ、実際には当時の日本社会に適していなかったのではないだろうか。 にもかかわらず律令制を適用したために、奈良時代の農民はたいへんな苦労を強いられた。唐が攻めてくることもないから、多くの租税を徴収する必要はなかったし、防人として九州に行かされる必要もなかったのだ。 「壬申の乱の結果、律令制ができ、天皇中心の中央集権国家が完成して、素晴らしい国になった」と考える向きもあるが、日本のその後にとって、本当にいいことだったのか。今一度、壬申の乱が巻き起こした日本史の大転換について、考え直すべきかもしれない。
更新:11月24日 00:05