大政奉還の舞台となった二条城(二の丸御殿)
大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、京都にいる一橋慶喜に仕えた。
その京都は、まさに政局の中心地であった。八月十八日の政変から鳥羽・伏見の戦いへと至る5年の間に、京都で何が起きていたのか……。
※本稿は、『歴史街道』2021年6月号の特集「『幕末京都』の真実」から一部抜粋・編集したものです
文久3年(1863)8月18日、会津藩と薩摩藩が中心になって、朝廷内でクーデターを決行、三条実美ら急進派の公卿七名と長州藩勢力を京から追放した。世にいう八月十八日の政変である。
これ以後、鳥羽・伏見の戦いまでの激動の5年間について、ターニング・ポイントとなった出来事を概観しつつ、その歴史的意義について解説していこうと思う。
まずは、八月十八日の政変までの幕末の流れを簡潔に触れておこう。
幕府が開国して列強との交易が始まると、物価が高騰して欧米人への反感が強まった。一方、通商条約の勅許を拒んだ孝明天皇に人望が集まり、天皇を奉じて列強を追い払おうとする尊皇攘夷運動が盛り上がった。
さらに運動を弾圧した大老の井伊直弼が桜田門外で殺されると、幕府の威信は失墜。この頃から朝廷に長州藩士ら尊攘派が入り込み、急進的な公家と結んで実権を握り、幕府に攘夷を迫ったり、将軍の上洛を求めたりするようになった。
文久3年3月に将軍家茂が上洛すると、朝廷は攘夷を命じ、仕方なく幕府は、「文久3年5月10日をもって攘夷を決行せよ」と諸藩に通達した。ただし、幕府の考える攘夷とは、列強と交渉して日本から退去させることであった。
ところが、長州藩は関門海峡を通過する外国船に砲撃を繰り返した。さらに8月13日、尊攘派の画策により朝廷は孝明天皇の大和行幸を発表する。攘夷祈願という名目で天皇を行幸させ、そのまま攘夷軍を結成して欧米人を駆逐しようと考えたのだ。
しかし孝明天皇は、こうした激烈な行動を嫌い、公武合体派の島津久光(薩摩藩主の父)らに相談した。公武合体派とは、朝廷と幕府が協調して政務を行なうべきと考える一派である。
当時、孝明天皇は過激な攘夷主義者と思われていたが、その真意を知った薩摩藩は、京都守護職の会津藩を誘い、8月18日に朝廷内でクーデターを決行した。
政変後、朝廷は公武合体派の一橋慶喜、松平慶永、山内豊信 (のち容堂)、伊達宗城、松平容保、島津久光ら諸侯を参与に任じ、朝議に参加させることにした。朝廷の権威は幕府を凌ぎ、会議の動向が政治を左右するかに思われた。
ところが、参与会議は3カ月で空中分解する。慶喜が横浜鎖港を主張したからだ。貿易額の大半を占める横浜港を閉鎖するのは、到底、現実的ではないので、久光や慶永は撤回を求めたが、慶喜は耳を貸さなかった。
どうやら慶喜は、わざと参与会議を崩壊させようとしたと思われる。朝廷で主導権を握ろうとする久光を警戒したとか、攘夷をとなえ天皇の歓心を買おうとしたとも言われるが、自己の権力を高めるのが狙いだったようだ。
あきれた諸侯たちは国元に戻ってしまい、その後、天皇に気に入られた慶喜が禁裏御守衛総督に任じられ、京都守護職の会津藩主・松平容保や京都所司代の桑名藩主・松平定敬と結んで、朝廷の主導権を握るようになった。
この慶喜政権(一会桑政権)は、公武合体をかかげ、江戸の幕閣とは一線を画したが、性格的には親幕府であった。
翌元治元年(1864)6月5日夜、会津藩お預かりの新選組は、長州藩士や長州派の浪士たちがたむろする池田屋を襲撃、5人(異説あり)を殺害、多くの者を捕縛した。
この時期、「浪士が京都に放火し、混乱に乗じて松平容保らを殺害、孝明天皇を拉致して長州に連れ去る」という噂が流れていた。同日朝に捕縛した古高俊太郎の供述から、新選組は近々に市中で焼き打ちが行なわれる計画を知り、会津藩に出動を要請した。
会津藩内では慎重論も強かったが、最終的に桑名藩と一橋家の同意を得て出兵を決意する。場合によっては、長州藩との全面対決も辞さない覚悟だった。
というのも、この数年間、尊攘派は、勢力拡大のために親幕府派や公武合体派の人々を天誅と称して殺害したり、恐喝したりして京都の治安を乱してきたからだ。
だから新選組が池田屋を制圧した後も、会津・桑名・一橋家の家士は翌朝まで市中の探索を行ない、多くの尊攘派を捕殺していった。ただ、長州藩邸の藩士たちが自制したため、大きな戦いにはならなかった。
しかし翌7月、長州藩は三人の家老を押し立てて、大軍で京都郊外に姿を現わした。前年の政変で都落ちした尊攘派公卿と長州藩主の冤罪を訴えるために来たというが、それは口実に過ぎず、武力で威圧して朝廷の実権を奪還しようとしたのである。
以前からの予定の行動であったが、池田屋事件が長州勢の怒りに油を注ぐことになったのは間違いない。
やがて長州軍は京都市中に乱入し、薩摩藩や会津藩などと激戦を演じたが、最終的に敗北して撤退した。
この禁門の変で長州藩は朝敵となり、朝廷は幕府に長州征討を命じた。征長総督には尾張の元藩主・徳川慶勝が任じられた。
この頃、西郷隆盛は京都で初めて幕府の軍艦奉行・勝海舟と会談している。勝が会見を申し入れたのだ。軍賦役として禁門の変で活躍を見せた西郷は、長州征討で軍の総参謀に任じられ、徹底的に長州を叩こうと考えていた。
勝はこれに大反対で、西郷に会うなり「幕府はもうダメだから、共和政治(雄藩の連合政治)をするべき。長州を攻めてはいけない」と説いたのである。
幕府の重臣でありながら共和政治を語る勝に度肝を抜かれた西郷は、大久保利通に宛て「実ニ驚入候人物ニて(略)とんと頭を下げ申し候。どれだけ智略のあるやら知れぬ塩梅ニ見受け申し候。まず英雄肌合いの人にて(略)勝先生にひどく惚れ申し候」と記している。
考えを改めた西郷の尽力により、長州藩は責任者の首を差し出して謝罪し、当面の武力衝突は回避された。しかし江戸の幕閣はこの決着に不満で、翌慶応元年(1865)1月、長州藩主の毛利敬親父子を江戸へ護送しようとした。
これを察知した朝廷は、幕府に主導権を握らせぬよう、勅命でその動きを阻止。すると2月初旬、老中の阿部正外と本庄宗秀が、江戸から大軍を率いて上洛してきた。朝廷を威圧し、さらに一橋慶喜を江戸へ召還しようと考えたらしい。
だが、関白の二条斉敬が「慶喜公は、将軍に代わって京都を警備している。帰府せよというのは解せぬ。それに、無断で大軍を都に引き入れるとはどういう了見か」と激しい叱責を加えたので、阿部と本庄はすごすごと引き返していった。
更新:12月04日 00:05