同年閏5月、将軍家茂が大軍を率いて大坂城に入った。長州に誕生した革新政権が反抗的な姿勢を見せたので、勅許を得て再征を断行しようというのである。
京都の慶喜派(一会桑)も全面的に協力し、9月20日、慶喜は朝議に乗り込み、長州再征を奏請する将軍家茂に勅許を与えることを内諾させた。
さらに10月4日の朝議でも通商条約の勅許を求め、反対した公家たちが退出しようとすると、「認めぬというのなら私は責任をとってこの場で腹を切る。ただ、私が腹を割いたら、家来があなたたちにどんなことをしでかすかわからない」と言い放って席を立った。公家たちは震え上がり、翌5日、通商条約の勅許を出してしまう。
こうした慶喜の豪腕に反発した薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らは、長州藩との提携を模索するようになる。かくして坂本龍馬らの仲介により薩長両藩の融和がはかられ、慶応2年(1866)1月、軍事同盟の密約(薩長同盟)が結ばれたのである。
ただ近年は、同盟は倒幕を約したものではないとか、同盟交渉に龍馬は関与せず、木戸孝允が孤軍奮闘して成立させたといった説が登場してきていることも、付け加えておく。
同年6月、第二次長州征討が始まったが、薩摩藩は出兵を拒否。しかも戦いは、長州軍が征討軍を圧倒するという予想外の展開となった。さらに翌7月、将軍徳川家茂が大坂城で病没してしまう。
この危機的な状況に、多くの幕臣は慶喜の将軍襲封を望んだ。しかし慶喜は、徳川家の家督だけを継承し、将軍職には就かなかった。己の威望を高めるため、諸大名から推戴されたうえで就任することを望んだのだ。
慶喜の懐刀だった原市之進は、諸大名のもとに出向き、慶喜を将軍に推すよう求めた。結果、尾張藩、紀伊藩、松山藩などが「ぜひ慶喜公を将軍に」と記した嘆願書を朝廷に差し出し、孝明天皇も11月、「徳川中納言 (慶喜)へ(将軍)宣下あるべしと思うなり。たとえ固辞すとも、此度は是非御請け致すべしとの内意を伝宣せよ」(『徳川慶喜公伝』東洋文庫)と申し渡した。
こうして慶喜は、慶応2年12月に15代将軍になったのである。
だが、それからわずか20日後に孝明天皇が急死する。天皇の死は、慶喜にとって大打撃だった。死因は疱瘡というが、一説には岩倉具視と大久保利通による毒殺説もある。
それでも、原市之進の工作で慶応3年(1867)5月に兵庫開港の勅許を獲得するなど、その後も慶喜は朝廷で大きな政治力を発揮し続けた。
ところがそれから3カ月後、その原が攘夷派の幕臣に暗殺されてしまったのである。これも慶喜にとっては大きな痛手だった。
さて、慶喜の将軍就任に危機感を覚えた薩摩の西郷や大久保も政治活動を加速させる。6月には土佐藩重臣の後藤象二郎や福岡孝弟らと、「慶喜に将軍を辞職させ、朝廷を中心とした諸侯会議による共和政治を実現する」という薩土盟約を結び、さらに芸州藩を加えて薩土芸三藩盟約を成立させた。
なお、後藤象二郎は、坂本龍馬の示唆を受け、元藩主・山内容堂の許可を得たうえで、幕閣に大政奉還(幕府が朝廷に政権を返還)の実現を働きかけるようになった。
一方で、慶喜のすさまじい軍事改革を目の当たりにした薩長倒幕派は、武力で徳川家そのものを倒すしかないと考えるようになり、後藤が進める大政奉還論に反対し、薩土盟約の破棄を通告した。
同時に、大久保が岩倉具視と結んで、倒幕の勅書を薩長両藩に与えるよう政治工作をすすめた。倒幕の密勅は10月13日に薩摩藩にくだったが、翌14日に慶喜が大政奉還の上表を朝廷に提出したことで水の泡となった。慶喜に機先を制せられたのだ。
ところが倒幕派は巻き返しをはかり、公卿の正親町三条実愛や中山忠能らを味方に引き込み、12月9日、五藩(薩摩、土佐、芸州、尾張、越前)による朝廷でのクーデターを断行、明治天皇による王政復古の大号令を発布させたのである。
これにより幕府は正式に廃止され、朝廷に新政府が樹立された。この夜、五藩の有力者が明治天皇臨席のもとで会議(小御所会議)を開いたが、倒幕派は慶喜への内大臣罷免と領地(一部)の返上を議題とした。徳川方の暴発を誘発し、武力で倒そうと企図したのである。
会議は山内容堂らの公議政体派(土佐、越前、尾張)の反対によって紛糾したものの、最終的に倒幕派が押し切る形で、慶喜の辞官納地を決定した。
これを知った慶喜は部下の暴発をおさえ、速やかに京都から大坂城へ移り、事態を静観した。すると、多くの大名が徳川家に同情を寄せ、これに力を得た公議政体派は、倒幕派から新政府の主導権を奪い、慶喜を新政府の盟主に据えようと動き、それがほぼ実現することに決まった。
そんなとき、大事件が発生する。江戸の佐幕派が薩摩藩の屋敷を襲撃したのだ。西郷隆盛が江戸へ送った浪人たちが、乱暴狼藉を働いたためである。
事件を知った大坂城の兵士は激高し、さすがの慶喜も抑えきれなくなり、慶応4年(1868)正月元日、仕方なく討薩の表(新政府から薩摩勢力の排除を求めた要求書)をしたため、翌日、これを持たせて京都への進撃を許してしまった。
結果、翌3日に京都の入口である鳥羽と伏見で、旧幕府軍と薩長倒幕派は全面的な武力衝突に至る。これが世にいう、鳥羽・伏見の戦いである。
旧幕府方1万5千に対し、薩長を中核とした新政府軍は5千。旧幕府軍の装備は薩長に引けを取らなかったが、指揮官の無能によって敗北した。
すると大坂城の慶喜は正月6日、大坂城から敵前逃亡し、蒸気船に乗って江戸へ逃げ帰ってしまった。これにより旧幕府軍は瓦解し、翌明治2年(1869)まで戊辰戦争が続くことになる。
更新:12月04日 00:05