毛利輝元像(山口県萩市)
いまの歴史は、残存している史料や遺物・遺構を調査・研究することで、学者によって明らかにされてきた事実が積み重なってできたもの。逆にいえば、史料や遺物など証拠が全く残っていなければ、何もいうことができないのである。だからよく、歴史は勝者がつくるといわれる。負けたほうの足跡は勝者によって消されてしまうか、都合よく改変されてしまうからだ。
また、敗者・被支配者が生きのびるため、時の権力者に疑われる証拠をみずから抹消してしまう場合も無数にあったと考えていい。だが、所詮は人間のすること。完璧ではない。ちらり、ちらりと、時折真実の歴史が顔をのぞかせる。それをつかみ出して並べたとき、驚くべき史実が浮かび上がってくることもある。
たとえば、大坂夏の陣での毛利輝元の動きがそうだ。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は、家康に七カ国を奪われ、長門・周防二国に押し込められた。当然、徳川家への恨みは深い。
その後の大坂夏の陣の折り、輝元は病と称して出陣せず、先遣部隊として一族の毛利秀元を徳川軍に合流させるだけにとどめた。秀元は、家康が感嘆する奮闘を見せるが、輝元自身はいつまでたっても毛利本隊を進発させようとしなかった。また、毛利家の家老福原越後・児玉豊前の支隊も、兵庫に停泊したまま大坂へ向かおうとはしなかった。結局、毛利軍が大坂に着いたのは、豊臣家滅亡後であった。この行為は、厳罰に値した。だが家康は、秀元の活躍に免じて遅参を許している。幸運だったといってよい。とはいえ輝元は関ヶ原の敗将であり、大坂の陣は徳川への忠節を見せるよい機会であったはずなのに、全く解せない行動である。
一説に、輝元は家康の死を想定して動かなかったといわれる。実際、徳川本陣は真田幸村の猛攻を受け、家康を守護していた旗本隊は崩され、討ち死にするところだった。もしも輝元が事前に真田隊の作戦内容を知っていたなら、毛利氏の動向は不思議でも何でもないだろう。
実は、その可能性は十分にあったのである。
大坂落城後、佐野道可という男が大坂方の残党として捕縛された。彼の身元を調べてゆくうち、驚くべき事実が発覚する。佐野道可というのは変名で、本名は内藤元盛、なんと1万石の大禄を食む毛利一族だったのである。つまり、元盛を通じて輝元が大坂方の情報を入手することは、至極たやすかったわけだ──。
幕府はこの事実を重視し、輝元の大坂内通について徹底的に追及したが、元盛は「大坂に加担したのは自分の意志だ」とする主張を崩さなかった。それでも幕府は疑いを解かず、長州から元盛の息子2人を呼んでさらに事情を質した。が、息子たちも「父とは仲が悪く絶交状態にあり、大坂方に加わるとは夢にも思わなかった」と最後までしらを切り通した。これ以上問い詰めても無駄だと思ったのか、幕府は元盛を山城国鷲巣寺で自害させ、調査を終了した。
だが、所々の古記録をつなぎ合わせてみると、大坂城が徳川の攻撃に数年間は持ちこたえ、その間に家康の寿命も尽きるだろうと楽観した輝元が、冬の陣の直前、勝利の暁には大封を与えると約して元盛を大坂城へ入れた、という真相がぼんやりと浮かび上がってくる。
また、毛利秀元が徳川方として目覚ましい活躍をしたのは、豊臣方が敗れた場合に毛利軍の遅参を帳消しにする保険だったらしい。ちなみに元盛の2人の息子は、長州へ戻ったあと、証拠隠滅のために切腹を命じられた。これでは粛々と死についた内藤元盛も浮かばれまい。
さて、伊達政宗も毛利氏同様、大坂夏の陣のとき謀反をたくらんだと人々から疑われた。そのため、大坂夏の陣の直後、政宗が家康に向かって「この度の戦、味方のなかに逆意の者がおらず、まことに結構なことでありました」というと、家康は、「敵が滅んでしまっては、逆意の者は知れぬものだ。全くいなかったとは思えない」と答えたという。政宗に対する痛烈な皮肉であった。
が、政宗は平然と、「いかにもおっしゃるとおりです。私の家臣のなかにも、逆心を抱いた人間がいたかもしれませんが、勝戦ゆえ、敵に口がないので永遠にわかりますまい」と返したという。激動の時代を生き抜いてきた豪者らしい、人を食った会話である。
《機会さえあらば、天下を!》
それは、戦国に生まれた男たちの夢であり、大坂夏の陣という大戦は、夢をかなえる最後のチャンスだった。しかし豊臣家が滅び去った瞬間、それは儚く潰え、大望をたくらんだ大名たちは、敗者に口がないのをいいことに、自分こそが徳川の忠実な下僕であると語り、したたかに次の世を生きたのであった。
※本稿は、河合敦著『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』(PHP研究所)より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月10日 00:05